2011年12月9日金曜日

クリスマスのお知らせ

甲府教会でのクリスマス礼拝のお知らせです。


12月24日 19時半~ クリスマスイブ・キャンドル礼拝

ひとり一人の手元にろうそくを灯し、その明かりの中で静かに礼拝の時を持ちます。
クリスマスキャロルを歌い、聖書が語る希望のメッセージを聞きます。


12月25日 10時半~ クリスマス(降誕祭)礼拝

こちらはいつも通り日曜日の朝の礼拝です。
今年はなんと25日が日曜日!
救い主の誕生を記念し、感謝する礼拝を持ちます。
今年は「ゆだコーラス」の皆さんに来ていただいて、音楽奉献をしていただきます。
  

初めての方も、もちろん大歓迎です。
クリスマスは教会で過ごしてみませんか。
お待ちしています。

2011年11月12日土曜日

11月20日の礼拝

ルーテル学院大学名誉教授 徳善義和先生をお迎えして、説教をしていただきます。
貴重な機会ですので、是非お出かけください。お待ちしています。
         
徳善義和(ルーテル学院大学名誉教授)

【 略 歴 】

1932年、東京生まれ。

東京大学工学部土木工学科卒業、立教大学大学院修士課程修了、 日本ルーテル神学校卒業、ハンブルク・ハイデルベルク両大学神学部留学。 神学博士。

日本ルーテル神学校教授、校長、同ルター研究所所長、神戸ルーテル神学校客員教授、日本キリスト教協議会(NCC)議長、日本エキュメニカル協会理事長などを歴任。

【 主な著書 】

・『神と乞食――ルター・その生と信仰』(聖文舎)
・『ルター』(平凡社)
・『自由と愛に生きる――『キリスト者の自由』全訳と吟味』
・『マルチン・ルター――生涯と信仰』(教文館)など多数。
・『ローマ書講義』上下
・『ガラテヤ大講解』上下(いずれも『ルター著作集』聖文舎所収)などルターの翻訳多数。
                                       


2011年11月6日日曜日

全聖徒主日説教「キリストは勝っている」

(ヨハネによる福音書16章25-33節)
 私たちは毎年、11月の第一日曜日に、この「全聖徒主日」という日の礼拝を守っています。多くの教会は、このように先に天に召された方々の写真を礼拝堂に飾り、偲ぶ時を持っています。ここに飾られている写真の中のお一人お一人は、そしてここに飾られていなくても、今私たちが思い起こしているお一人お一人は、かつて私たちと一緒にいて、楽しいことも、辛いことも一緒に経験した人たちです。今、この人たちの写真を前にして、私たちは何を思うでしょうか。この人たちが亡くなられたとき、私たちは何を感じたでしょうか。この人たちは、私たちに何を教えてくれているでしょうか。本当に様々あると思います。「身近な人を亡くす」「親しい人を亡くす」ということは、生きていれば誰もが必ず経験することです。そして、私たちは「死」が、いつも理想的な形で訪れないということも、少しずつ学んでいきます。そして私たちも、いつ・どのように召されるのかわからない中を生きています。
 そして私たちは、親しい人を亡くし、悲しみの中に、どんなに深い悲しみの中に沈んだとしても、それぞれの場所へとまた帰っていきます。それまでずっと一緒にいたのに、ずっと一緒に過ごしてきたのに、その人を一人ぼっちにし、そして私たちも大きな喪失感を覚えながら、それぞれ再び自分の場所に戻り、その人のいない人生を歩み始めます。その意味で、私たちはどんなに誰かと一緒にいても、孤独なのです。私のいのちは私のいのちであって、他の誰かが私のいのちを生きることはできません。その逆、つまり私が他の誰かのいのちを生きることもできません。普段は見えてこないこの当たり前の現実を、あらためて突きつけられるのが「誰かの死」という出来事です。「誰かの死」という出来事は、私たちが孤独であるということを嫌でも教えてきます。私たちが、死に対して本能的に感じる恐怖とは、この孤独に対する恐怖なのかもしれません。
 正直に言いますが、私は恐れています。自分自身が孤独になってしまうことも、怖くないと言えば嘘になってしまいますが、ですがもっと恐れていることは、今、親しくしている人との別れです。いずれ必ず訪れるその時を、私は恐れています。今までも、親しくしていた人との別れは、必ず私に後悔をもたらしました。そして、どんなに楽しい時間を一緒に過ごし、支え合ったとしても、結局お互いに一人きりにならなければならないという、あの孤独感、さらに言えば、その人を一人きりにして、結局自分の日常に戻らなければならない悲しさを味わうことを、私は恐れているのです。遺されたものが必ず味わう悲しさは、その人のいない日常を、それでも生きていかなければならない辛さではないでしょうか。それは、遺された私たちが感じる孤独ではなく、私たちから離れていった人たちを孤独にしてしまう、いわば罪悪感のようなものではないかと思います。
 今、ここに飾られている写真の中のお一人お一人も、それぞれがご自分の死を経験されたのです。そして、私たちが離れていくということを経験されたのです。あんなに一緒にいたのに、もう一緒ではない。あんなに支え合ったのに、もうそれができない。そのような経験です。
 では、それからはいったい誰が、このお一人お一人と一緒にいるのでしょうか。いったい誰が、このお一人お一人を支えるのでしょうか。それh、私たちの主イエス・キリストの父である、神様です。これは、ありきたりの答えでも、キリスト教的な単なる綺麗事でもありません。今日の福音書の箇所で、イエス様は言われました。
 
「あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、わたしを一人きりにするときがくる。いや、すでにきている。しかし、わたしは一人ではない。父が、共にいてくださるからだ。」(32節)

 このイエス様の言葉は、イエス様ご自身が体験された事実であり、私たちに語られた、イエス様の約束なのです。遺された私たちが悲しみの中に沈み込み、絶望することのないように、そしてやがて召されていく私たちが、孤独に怯えることのないように、イエス様はご自分の十字架の死を通して、私たちに教えてくださっているのです。十字架の死は、孤独の極みです。弟子に裏切られ、逃げられ、人々から捨てられて、しかも無残にもさらされているのです。ですが、そのような孤独の極み、悲しみと絶望の極みを、実は神様が支えておられるのです。この世の目、人間の目には孤独に見える十字架ですが、神様が成し、神様が支えておられるのですから、むしろ孤独とは離れているのです。そこには、本当の平安があります。私たちが心の底で求めている、本物の救いがあるのです。神様が一緒にいてくださるという救いです。十字架のイエス様が本当の平安、救いの中にあったように、この写真のお一人お一人も、今、本当の平安の中に、救いの中にあるのです。
 そしてイエス様は、今もこの世を生きている私たちに語られます。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に、世に勝っている。」(33節)

 私たちがどんなに罪悪感や後悔に苛まれようとも、この人たちは、この世のどんなものよりも確かなお方によって、支えられているのです。そして、私たちがいつか必ず経験することも、決して孤独ではないのです。イエス様はそのように言われているのです。私たちが今生きている“この世”は、苦難に満ちています。“この世”の目では、死は恐怖かもしれません。ですが、そのような苦難や恐怖に沈んでしまうのではなく、それでも一歩進む、そんな勇気を、イエス様は与えてくださっているのです。
 イエス様は、「わたしは世に勝っている」と言われました。私たちを襲うあらゆるものに、イエス様は勝っているのです。悲しみに沈む私たちのために、孤独に怯える私たちのために、イエス様は世に勝っているのです。敗北だらけの私たちの人生に、ご自分の勝利を与えるために、イエス様は私たちと共にいてくださるのです。
 私たちの教会では、聖餐式の際、この聖卓を囲んで、半円の形を作ります。これは、もう半分、聖卓の向こう側には、既に召され、神様の本当の平安のなかにある方たちがおり、その方たちと一緒に聖卓を囲んでいるということをあらわしています。全聖徒、すべての聖なるものたちとは、この聖卓を囲む、私たちの時間と空間を超えた、私たち全員のことです。今日、特にそのことを感じながら、イエス様のからだと血とを受けていきたいと思います。そして、この聖卓の向こうにいるお一人お一人と、何よりもイエス様の御言葉から、勇気と希望とをいただいて、新しい週へと歩みだしてまいりましょう。

2011年10月30日日曜日

宗教改革主日説教「神様の前で、神様と共に生きる」

(ヨハネによる福音書2章13-22節)

今日は「宗教改革主日」です。これは1517年、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城門に「贖宥の効力を明らかにするための討論(95ヶ条の提題)」を掲示した日が、10月31日といわれていることから、宗教改革の始まりの日として記念されているものです。特に、ルターの名前がついている私たちルーテル教会にとっては、特別な日であります。誕生日といってもいいかもしれません。
 ですが、私は今日、そのルターの偉業をたたえるような説教をするつもりはありません。それに、いわゆる「信仰義認論」についての説明をするつもりもありません。今日、この日のために選ばれている聖書の言葉から聞くことで、この宗教改革主日を記念し、守りたいと思います。
 今日の福音書の物語は、イエス様の「宮清め」と言われている物語です。これはヨハネによる福音書だけではなく、マタイ・マルコ・ルカという他の3つの福音書にも書かれています。珍しく4つの福音書すべてに記されているものですが、ヨハネの場合、他の3つとは違い、「しるし」という大切なテーマが裏側に流れています。この「しるし」というのは、単なる奇跡ではなくて、その奇跡を通して、イエス様がいったい何者であるのかを表すもののことです。目に見える出来事を通して、目に見えない深い意味が顕されているのです。
 このヨハネによる福音書における「宮清め」の意味とは何でしょうか。イエス様は神殿で、「羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒す」という、信じられない行動を取りました。普段私たちがイメージしているような、優しいイエス様とはかけ離れています。このようにして、神殿から商売や人間の欲を追い出し、聖なる場所として回復させているかのように見えます。ですが、果たして本当にそうでしょうか。
 実はこれは、神殿を商売の場所にしてはいけないというだけの話ではないのです。神殿では正しく礼拝されなければならないとか、当時のユダヤ教が腐敗していたとか、そういった話ではないのです。イエス様はなぜこんなにも激しく人々を攻撃したのでしょうか。批判なんてものではありません。見方によっては、暴力的ですらあります。そこまでして、この神殿で行われていたことを破壊しています。なぜでしょうか。 ここでイエス様は、商売だけを追い出しているのではないのです。神殿で行われていること、礼拝そのものを破壊しているのです。
 当時、神殿で礼拝するとき、生け贄がささげられていました。神殿で売られていたのは、遠くから訪れた巡礼者たちが生け贄として用いるための動物だったのです。その動物たちがいなければ、礼拝を行なうことはできません。イエス様はこれらの動物たちを追い払うことで、これからはこのような場所も、動物たちを用いた生け贄も、もう必要ないということを示されたのです。神殿から生け贄を追い出し、神殿が神殿であることを否定することによって、これまであったものに替わる新しいものが与えられるということが、この物語で言われているのです。今までの契約に従ってささげられていた生け贄に替わって、イエス様ご自身が生け贄となり、人間と神様との新しい契約を示されたのです。もう必要ないから、イエス様は破壊したのです。
これまで、エルサレム一か所にしかなかった神殿に替わって、これからはイエス様がささげられる場所、イエス様がおられる場所が、正しい礼拝の場所になるということを示されたのです。それも、私たち人間がイエス様を神様にささげるのではありません。神様が、私たちのために、イエス様をささげてくださったのです。ここに、神様と私たちとの新しい契約があります。人間が、神様に赦していただくために、神様に対して何かするのではありません。神様が、人間を赦すために働きかけてくださるのです。あくまで、神様からの行為としての礼拝が行われるようになるのです。
私はこのことに、今日の福音書の箇所が宗教改革主日に選ばれている理由を感じています。人間を神様の前で正しく人間であらしめるために、イエス様は余計なものをすべて破壊しました。ルターも、当時の教会が作り出した様々な制度に立ち向かっていきました。それはルターが他の何にもよらず、ただイエス様を通して、自分の罪を赦し、正しく一人の人間として立たせてくださる神様の愛を知ったからです。私たちは、神様の義の味を知っています。私たちのために独り子をお与えになり、私たち一人一人を、ご自分の前に正しく人間として立たせてくださり、ご自分の愛の器として私たちを用いてくださる方の愛を知っています。
イエス様が顕してくださった最大のしるし、それはまさに、今までのものがすべて破壊され、3日後に新たないのちとして私たちに示され、与えられた出来事、あの十字架と復活です。私たちは、この神様の義によって、今も御前に立っているのです。私たちは、受け取ることしかできません。御言葉も、御身体も、受け取ることしかできません。ですがそれは、受け取った私たちが、この世を生きていくために、この暗闇の世にあって、キリストのようにこの世の光として歩んでいくために、神様がそのようにしてくださっているのです。
今、私たちが「教会」という言葉を使うとき、多くの場合はこの建物を意味しています。ですがこれはあくまで礼拝堂という建物であって、教会そのものではありません。教会とは、キリストのからだなのです。この世に受肉し、十字架につけられ、復活したキリストのからだです。では、そのキリストのからだとは何でしょうか。抽象的な何かでしょうか。漠然としたものでしょうか。それとも、やはり建物でしょうか。どれも違います。キリストのからだは、いつでも具体的なものです。なぜならそれは、私たち自身だからです。私たちの古いいのちは、イエス様と一緒に十字架につけられました。今、私たちが生きているのは、もはや私たちではありません。イエス様ご自身が、私たちの中に生きておられるのです。何もおそれることはありません。私たちは今、この神様の前で正しく私たち自身とされ、この私たちを愛し、私たちを立たせてくださる神様と共に、新たに歩みだしていくのです。この世にあって、教会とは建物でも組織でもなく、神様の前に立ち、神様と共に生きる私たち自身なのです。
私たちは、神様に赦されるということを知っています。神様に愛されるということを知っています。そして、私たち自身がそれぞれの十字架を負って歩んでいます。私たちは、イエス様が他者のために、私たちのために苦しみを受けられたことを知っています。これが大切なのです。それらのことを知っている私たちには、神様の愛が宿っているのです。これからは、私たちが神様の臨在を顕し、神様の愛を顕す神殿として、立っていくのです。

2011年10月28日金曜日

11月3日は「ルーテルバザー」!

11月3日は、毎年恒例の「ルーテルバザー」があります!


会場は教会です。集まったさまざまな遊休品や野菜、手作り本格キムチなどを売ります。


また、カレーや焼きそばなどもあります。3日のお昼は教会でいかがですか。


途中、牧師によるギター弾き語りライブもする予定です。


午前10時半から午後2時まで開かれています。お誘いあわせの上、ぜひお越しください!

2011年10月1日土曜日

夕礼拝を行っています。

私たちルーテル甲府教会では、日曜日の夜にも礼拝を行っています。
一日を終え、静かな雰囲気の中、祈りの時をもちます。

午前中の礼拝に出席することができない方や、少人数を好まれる方は、
ぜひ夕礼拝に足をお運びください。

19時半から20時10分頃までです。

2011年9月18日日曜日

聖霊降臨後第十四主日「今ここにいるということ」

(マタイによる福音書18章1-14節)

 私たちの社会を言い表す言葉として「競争社会」というものが使われるようになってから、どれくらいの時間が経ったでしょうか。言葉にすると、確かによく言い表していると思いますが、こうも何度も何度も使われると、新鮮さを失い、気にもとめなくなります。「競争社会」という言葉も、そのように使われすぎて、私たちは全員飽きてしまったのかもしれません。最近は、一昔前のような雰囲気すら出ています。
 ですが、もちろん私たちが生きている世界から競い合いの要素がなくなったかといえば、まったくそんなことはありません。競いながら前に進むことは、私たち人間の性質のようなものです。今日も、私たちは競い合いながら前に進んでいます。本当は全員で一緒に一歩を踏み出すことができればいいのかもしれませんが、自分が前に進むためには、残念ながら誰かに勝たなければなりません。そして、そのような勝負に負けた人や、そもそも勝負の舞台に立っていない人は、この世界の“大きな人たち”の前に、何故か劣等感を抱きながら生きなければならないのです。そんなことがずっと繰り返されながら、私たちの歴史は作られてきました。
 その時その時で必要な人材や物が求められるということは、世界を回すためには必要なことでしょうから、私はそのことのすべてを否定しませんが、どう考えてもおかしいと思うのは、その時にかなっていなかったからといって、あるいはその人に力がないからという理由で、その人のいのちそのものが必要とされていないとされてしまうことです。また、そのような人が、自分自身のいのちの理由を見出すことができなくなることです。競い合いの世界、つまり上を目指す世界の中で、残念ながら人間の考え方は、そのようになってしまうのです。
 自分に何かしらの価値を与えるために努力し、自分の価値を知ってもらうために奮闘する。大切なことだとは思いますが、それがすべてになってしまうと、私たちは自分以外の人を否定してしまういのちを生きることになってしまうのです。「あの人にはないものを自分は持っている」「あの人にできないことが、自分にはできる」「そのような自分は偉い」自分は凄いと思うために、一生懸命大きく見せようとすることもあります。そして、「できないあの人はダメだ」「できない自分はダメだ」など・・・。これらの姿は、どれも本当に息苦しいものです。必要とされるかされないかで、お互いに裁き合い、そして自分を裁くのです。そこには本当にみっともない、いのちの本質が見失われた自己主張しかないのです。人間の自己義認の最たる姿であると言えるかもしれません。
 
 前置きが長くなりましたが、今日のイエス様ははっきりと、そのような価値観から向きを変えなければ、天の国に入ることはできない、と言われます。「天の国で一番大きいのは誰か」という質問に対して、子どもを一人呼び出して言うのです。「自分を低くして、この子どものようになる人が、一番大きいのだ」と。この子ども、イエス様によって呼び出されて、今中心に立たされているこの子どもは、自分から前に進んできたのではありません。呼ばれたことを自慢してもいません。誇らしく思っている様子もありません。もしかしたら、自分が呼ばれた理由もわかっていないかもしれません。そのように、ただ呼ばれたから立っているという人が、「自分を低くするもの」であると言うのです。自分は価値があるから呼ばれたとか、自分の努力によって、この「呼ばれる」ということを勝ち取ったとか、そういったことではないのです。つまり、私たちが生きている世界の方向とはまったく違う方向に、天の国は、神の国はあると言うのです。
 本当にその通りなのです。一生懸命自分の力を誇示し、あるいはないものをあるように見せたりして、人との競争や裁き合い・蹴落とし合いの中で生きているいのちの中に、天の国はないのです。その意味で、この世界はつまずきだらけです。つまずきに満ちています。だからイエス様は、そのようなつまずきの中に生きるぐらいなら、片手片足になっても、片目になっても、いのちにあずかるほうが良い、と言うのです。確かに、できていたことができなくなることや、あったものがなくなるということは、わたしたちにとって本当に大きな挫折の原因になりますが、そのようになって初めて向き変わることができるのなら、その方が良いと言われるのです。時々わたしたちは、本当に強引に大切なものを失いますが、それはきっと、私たちが向き変わるために必要なことなのです。
 今日の箇所の最後に、「失われた羊のたとえ」が出てきます。わたしたちの誰もが好きな箇所であると言ってもいいでしょう。そう、わたしたちはこの羊、失われ、見つけ出され、羊飼いに喜ばれた羊なのです。この羊は、自分が見つけ出され、喜ばれたことを、他の99匹よりも優れているからだとか、自分だけが特別だからだと考えはしないでしょう。他の99匹に自慢することもないでしょう。むしろ、何の価値も見出せない自分のために、遠い道を探しに来てくれた羊飼いに感謝し、自分以外の羊も羊飼いにとっては大切であるということを知るようになるでしょう。わたしたちの歩みもそのようでありたいと思います。
 イエス様も、この世で最も小さく、価値のないものとして捨てられたものとして、十字架にかかりました。あの十字架から、イエス様はわたしたちを呼ばれるのです。「この世の価値観を捨て、このわたしに従いなさい」と。十字架に従いなさいと言われるのです。このイエス様の声をしっかりと聞きながら、今週も歩んでまいりましょう。この世界の価値観とはまったく逆の方向に、イエス様はおられます。今日この礼拝で勇気を受けて、たくさんイエス様に出会っていけるような一週間にしてまいりましょう。

2011年5月8日日曜日

復活後第二主日「信じることの難しさ」

(ヨハネによる福音書20章24-29節)

 人それぞれだとは思いますが、私にとって「神様を信じる」という言葉の意味は、神様を「信頼する」という意味が最も大きいです。「信頼する」とは、信用して任せるという意味ですから、現在のことだけではなく、未来のことも含む、時間を超えた関わりが生まれます。私たちは、未来のことは見ることができません。知ることもできません。わからないのです。この「わからない」というところに立つとき、「信頼する」という関係が成り立つのです。「信じる」のは、わかっているから信じるのではなく、わからないから信じるのです。
 その意味において、今日のイエス様の言葉は、私たちに大きなチャレンジをしてきます。「見ないのに信じる者は幸いである。」この言葉から、私たちが真っ先に受け取るメッセージは、「見ないで信じる者になりましょう」というものだと思いますが、残念なことにこれが本当に難しいのです。というのも、「信じなさい」という呼びかけに対して、私たちはこう思うからです。「なぜ信じなければならないのか」「信じることに何の意味があるのか」「信じるに値するものはあるか」「そもそも、何を信じるのか」。他にもあるかもしれません。「信じなさい」という呼びかけに対して、これぐらいの疑問はすぐに出てきます。「信じる」という行為には、「決断する」という要素も含まれているのです。私たちにとって、見えないもの・わからないものに対して決断していくことほど、大変なことはありません。
 そしてやはり、聖書の中にも、見ていないものは信じることができないという人がいました。今日の福音書に登場する、トマスという人です。彼ははっきりといいました。「この目で見るまで、この手で触れるまで、信じない」と。ここで言われている「信じない」とは、「復活という出来事」を信用することができない、そんなことはあるはずがない、という意味ですが、広い意味でとらえるならば、復活という神様の御業を、さらに言えばイエス様を復活させた神様を信じることができない、という意味でとらえることができます。深読みしすぎかもしれませんが、でもトマスの内側には、そのような思いがあったはずです。
 では、トマスとはどのような人でしょうか。今日の箇所だけを見ますと、大変疑い深い、現実主義者のような、まるで信仰者としては“悪い例”であるかのような印象を受けます。ですが、ヨハネによる福音書は、他の箇所でもトマスについて伝えています。そちらでは、どのように書かれているかを見たいと思います。
 11章16節では、友人ラザロが死んだという知らせを聞いたイエス様が、ラザロのところへ行こうと言ったとき、トマスは仲間たちに言いました。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と。これは、なかなか言える言葉ではありません。どこまでもイエス様についていくのだという強い意志があります。もちろん、彼の言ったことはその通りにはならず、最終的にラザロがお墓の中から出てくるという大きなしるしを目撃することになるのですが、きっとトマスは、そのしるしを見て心が燃えたと思います。
 もう一か所あります。14章に出てくるのですが、イエス様に従ってどこまでも行こうとする、彼らしい発言があります。「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。」「わたしがいるところに、あなたがたもいることになる。わたしがどこに行くのか、あなたがたは知っている」と、イエス様が不思議なことを言ったとき、トマスはそれを聞いていた人の心を代弁するかのように、イエス様に言いました。「主よ、どこに行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道をしることができるでしょうか」と。自分がどこに連れて行かれるのか、彼は知りたかったのですが、イエス様はただ「父のもと」とだけ言い、あとは従いなさい、とだけ言います。このトマスの質問に対するイエス様の答えは、あの有名な言葉「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉なのです。
11章の時点では、トマスは非常に熱い信仰を持ち、自分の命をイエス様のためにささげるという、強い思いがあることを見ることができます。その先にしるし、奇跡があるとは知らなくても、イエス様に従っていくのです。ですが、14章の言葉を聞くと、少し違った印象を受けます。先ほどとは変わって、どこか弱々しい、不安のようなものが見えます。
そして今日の箇所で、ついにトマスは最大の弱音を吐くのです。「この目で見るまで、この手で触れるまで、決して信じない」と。復活を信じることができない人間が、ここにもいました。彼の心は、言葉からよく伝わってきます。大変頑なになっています。主と一緒に死のう、と言っていた人が、「道・真理・命」という言葉を直接聞いた人が、こんなにも心を閉ざしているのです。これはただごとではありません。ただ、イエス様を知らない人が、復活と聞いて「いや、そんな非常識なことを信じることはできないよ」と答えるような、軽い言い方ではないのです。単なる疑いではないのです。彼は、「信じられなかった」のです。道であり、真理であり、命であるイエス様を、彼は見失っていたのです。
これは、ゼロの状態ではありません。プラス10からマイナス10、あるいはそれ以上の落差を経験した人の言葉です。信じる道を失った人がどうなるか、想像に難くありません。ずっとこれが正しいと思い、そう信じてきたのに、実はそうではなかったということは、私たちが生きている間も時々起ります。日本も、8月15日を境目に道を失いました。この教会にも、それを体験された方はおられるでしょう。トマスの心もそうだったのです。単に、復活という非科学的なことが信じられなかったのではありません。神様を信じられなくなっていたのです。
ですが、そのようなトマスのところに、イエス様は顕れるのです。「平和があるように」は、先週の説教の中で中心にあった言葉でした。これが今日も語られています。イエス様は、トマスに対しても、赦しを語っているのです。「信じない」というトマスの叫びを、イエス様は受け入れてくださっているのです。トマスを受け入れてくださっているのです。手と脇腹の傷は、単なる証拠ではなく、その傷の理由をトマスに思い起こさせたでしょう。イエス様の傷は、トマスのためにも負った傷なのです。
イエス様が、信じなさい、信じなさいを言う理由、またこの福音書が繰り返し信じることを強調する理由は、私たちがいのちを受けるためなのです。神様も、福音書を書いた人たち、伝えた人たちも、私たちに命を与えるためにそうしたのです。
ですが、「信じなさい」と繰り返し言うことや、このトマスの物語が書かれているということは、信じることがどれほど難しいかを表しています。信じることの難しさ、信じるという決断の難しさを、書き手はよく理解しているのです。
だから、「信じなさい」というのも、ただ文句を言わず、盲目的になりなさい、という意味ではありません。イエス様はちゃんと答えてくださるのですから、聞いてくださるのですから、問い続ければいいのです。わからないなら、その思いを内に秘めておくのではなく、堂々と神様に向かって「わかりません!」と言えばいいのです。その「わかりません」「信じません」という問いが、「わが主、わが神よ」という信仰告白へとつながる、大切な道なのです。
ここに書かれているのは、答えてくださるイエス様、顕れてくださるイエス様です。問い続ける中で、やがて答えが与えられ、神様がされることはすべて正しい、と言える日が来るのです。そこに向かう道も、信仰の歩みなのです。このような純粋な歩みを、私たちも続けていきたいと思います。

2011年5月1日日曜日

復活後第一主日説教「平和がありますように」

(ヨハネによる福音書20:19-23)

 今日の福音書の箇所で、イエス様が弟子たちに言われた言葉「あなたがたに平和があるように」とは、おそらく「シャローム」という言葉であっただろうと言われています。教会ではよく聞く言葉です。「主の平和が、あなたがたにあるように」という意味です。これは、当時も今もごく一般的な、普通の挨拶の言葉です。イエス様は、婦人達に「おはよう」と語りかけられたように、弟子たちにも、何の変哲もない、普段どおりの挨拶をしたのです。
 ですが、この普段どおりの挨拶に、深い意味が込められているのです。ここに書かれている出来事は、弟子たちに対するイエス様の赦しの出来事なのです。「平和があるように」とは実は赦しの言葉なのです。
 弟子たちは、ユダヤ人を恐れていました。イエス様の仲間であるということを告発されたら、自分たちも同じ目に遭ってしまうかもしれません。たとえ殺されなくても、神殿から追い出されるかもしれません。もう前と同じように、外を歩くこともできないかもしれません。きっと彼らは、自分たちは神様から遠いところにいる、と感じていたことでしょう。なにより、彼らはイエス様を見捨てて逃げました。信頼していた自分たちの主を、いつも従っていた主を見捨て、逃げたのです。ここで閉じこもっている弟子たちは、単に希望を失っていただけではありません。きっと彼らの中には、罪悪感もあったと思うのです。
 直前の箇所を読んでみますと、どうやらこの弟子たちはイエス様の復活を聞いていたようです。しかし、すぐに喜びませんでした。まだ恐れていました。なぜでしょうか。ただ復活を信じられなかったというだけでしょうか。私は、ここに彼らの罪悪感が関係しているのではないかと思うのです。
 イエス様の十字架に、彼らは自分の罪を見ました。イエス様は十字架に進まれましたが、弟子たちは逃げました。一番肝心なところで、彼らはイエス様に従わなかったのです。ああすればよかった、こうすればよかった、もっと自分にはなにかできたのではないだろうか、自分の選択は間違っていたのだろうか・・・私たちが大切な人を失ったとき、いつも思うあの思いを、弟子たちも感じていたのではないでしょうか。しかも逃げたという事実があります。もはや、彼らはイエス様に合わせる顔などなかったのではないでしょうか。復活されたイエス様に出会っても、何と言えばいいのかもわかりません。当然何事もなかったように挨拶なんてできません。また、何と言われるかわかりません。「お前はあの時、わたしを見捨てて逃げただろう」と言われてもおかしくないのです。彼らが抱いていたのは、イエス様を失った絶望感だけではないのです。逃げることを選んだ罪悪感、イエス様を見捨ててしまった自分に、彼らは絶望していたのではないかと思うのです。そのような中で、もう一度ユダヤ人のコミュニティに戻ることもできません。彼らは完全に行き場を見失っていたのです。
 しかし、イエス様は弟子たちの中に現れると、言われました。「平和があるように(シャローム)」と。この普通の挨拶が、部屋に鍵をかけて閉じこもるしかなかった弟子たちにとって、どれほど大きな救いだったでしょうか。イエス様は彼らを責めなかったのです。復活の後、動くことができなかった弟子たちの中に現れ、自ら近づき、落込んでいる弟子たちを励まし、力づけ、そして聖なる霊を与えたのです。これが赦し以外の何でしょうか。
 イエス様は、彼らを恨んでいないのです。私たちは普通、自分を裏切った相手に会ったとき、普通の挨拶はできません。自分を見捨てた人にすすんで近づいていって「平和がありますように」という美しい言葉はかけません。顔を見たら、怒りをぶつけてしまうかもしれません。いえ、顔も見たくないかもしれません。とてもその人のために平和を祈ることなんてできません。ですが、そのような私たちに、イエス様は語りかけるのです。「平和があるように」と。ご自身が負った傷を見せながら。弱い私たちに、語りかけてくださるのです。イエス様は、合わす顔がない私たちの中心に立ち、優しく「平和があるように」と言われるのです。
 ここに赦しがあります。復活のイエス様の「平和があるように」の一言で、弟子たちは赦しを“体験”しました。傷を負ったイエス様が、本物のイエス様が、死を越えた。救いは完成していた。そのことを、弟子たちは理解したのです。
 ここに赦しの根拠があります。私たちはこのようにイエス様に赦された存在だから、赦すものとなるのです。四旬節の間、言葉を変えながら繰り返し言いましたが、私たちは誰一人、イエス様の十字架を前にして「自分とは関係ない」と言うことはできないのです。私たち全員に、イエス様を十字架につけた罪があります。ですが、それでいいのです。私たちはまるでイエス様を十字架につけない生き方が素晴らしく、そのように生きなければならないと思ってしまいますが、そのような生き方は十字架から離れてしまう生き方です。十字架から離れようとする人生は、神様から離れようとする人生です。その反対で、イエス様の十字架をしっかりと受け止めていく人生は、神様と共に歩む人生なのです。大切なことは、もちろん神様と共に歩むことです。
 イエス様の十字架をしっかりと見つめる・受け止めることは、私たちが一番見つめたくない自分自身と向き合うことです。それは大変辛いことです。今日の弟子たちのように、暗く、行き場を見失うかもしれません。ですが、そこにイエス様は語りかけてくださるのです。復活されたイエス様は、もはや私たちを断罪しません。私たちは、赦されているのです。この“赦されている”ということが、復活の前と後の最大の違いです。私たちは、この赦しの中を今も生きているのです。
 復活のイエス様は、私たちの交わりの中心にいつもいてくださいます。そこから私たちに「平和があるように」と語りかけてくださっています。この言葉にあるように、イエス様が望んでおられることは平和です。赦しです。イエス様は十字架にかかる前に言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。それがわたしの掟である」と。愛することは楽ではありません。大変難しいことです。基本的に私たちは、自分が愛したいようにしか愛することができないからです。それに、人を赦すことは、もっと難しいといえます。私たちは、愛するより憎むことの方が容易にできてしまいます。赦すことより、裁くことの方がはるかに簡単です。それが私たちの性質なのかもしれません。だからイエス様は言われるのです。「あなたがたを遣わす」と。赦しを体験し、赦しを知った私たちは、たとえ赦すことが難しくても、この赦しの喜びを伝えていかなくてはならないのです。
それは、私たちが赦すという仕方でなければ伝わりません。
 「あなたがたが赦せば赦され、赦さなければ赦されないまま残る」とは、本当に大きな責任のある言葉です。私たちに赦しの権限が与えられたのですが、これは赦すも赦さないも私たちの好きにしてよい、ということではありません。イエス様は、明らかに赦すために私たちにこの権限をお与えになっています。喜びと共に。せっかく与えられた赦しを、誰が裁きに用いようとするでしょうか。せっかく与えられた愛を、誰が憎しみに変えたいでしょうか。私たちは、私たちと同じように赦しを必要としている人たちに、それを伝えていくようにと、召されているのです。
 赦すことの難しさは、イエス様の傷が物語っています。愛することの大変さは、イエス様が流された血が物語っています。私たちが人を愛することで負う傷は、イエス様が負ってくださっています。私たちはどんなに辛くても、孤独ではないのです。
ですから、もう罪に捕らわれることのないように、私たちもお互いに、そして外に向かって、宣言していきたいと思います。「あなたに平和がありますように」と。神様の赦しに、仕えてまいりましょう。

2011年4月24日日曜日

復活祭説教「与えられる新しいいのち」

(使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4、マタイによる福音書28:1-10)

 イースターおめでとうございます。もし「イースター日和」という言葉があるなら、まさに今日のような日を言うのではないかと思います。本当に素晴らしい天気のこの日に、ご一緒に復活祭の礼拝を守れますことを神様に感謝します。
 私は按手(牧師という職務を与えられる)を受けて、最初に迎えた日曜日が、四旬節第一主日でした。私の牧師人生の始まりは、四旬節と共に始まったのです。そして、この教会に着任したのも、四旬節の真只中でした。私はこのことを神様に本当に感謝しています。それは、皆さんと一緒に、四旬節の日曜日を過ごし、イースターに向けて歩むことができたからです。今日、このイースターから、私たちの教会の歩みを新たに始めていきたいと思います。私たちはいつでも、たどり着いたところからススタートすることができるのです。
 私たちは、この四旬節の間、死というものの持つ力の恐ろしさを、これまでにない仕方で体験しました。あの大きな災害は、直接大きな被害を受けていない私たちにとっても他人事ではありませんでした。私たちが様々なものを通して見聞きした現実、そこには、愛する者を失った悲しみに沈む人々だけではなく、自分が生きていることに対する罪悪感に包まれている人々もいました。まだまだ、私たちは死の力に囚われています。ですが、この死というものを前にして、すべてを捨ててしまったり、ただ立ち尽くしてしまったり、絶望したりすることは、死そのものを信じてしまっているからです。私たちは、いのちを信じましょう。今日、私たちに、唯一にして最大の希望、復活という神様の御業が示されました。私たち人間の恐怖、この世の暗闇は、この復活という神様の新しい創造の業によって、取り去られていくのです。私たちを捕らえようとするこの世界の闇に対する、私たちの逆転が、今日から始まるのです。
今日の福音書を読みますと、最初の部分では、イエス様のお墓は閉ざされていました。大きな石があったのです。お墓に行った女性たちだけでは、おそらく動かせなかったでしょう。しかも、お墓を閉ざしていたのは石だけではありませんでした。復活を信じようとしない兵士もそこにいて、お墓を見張っていたのです。重い石と、人間の力とによって、お墓は守られていたのです。ですが、天使がそこに現れ、その大きな重たい石を動かし、お墓をお墓のままに守ろうとする人間、信仰を攻撃する人間を震え上がらせ、死んだもののようにしたのです。天使が動かしたこの大きな石は、私たちの心を閉ざしている石です。お墓を守っていた兵士は、私たちの心の門の前に立ち、あらゆるものを排除し、私たちの心を頑なに守ろうとする力です。この大きな石と、兵士との力によって守られている限り、私たちの心は閉ざされたままなのです。
ですが今日、この福音書のように、私たちとイエス様とを引き離す力は眠らされ、大きな石は動かされ、天使がその上に座りました。神様の力によって、信仰の邪魔をするものは、その力を失いました。私たちの心は、神様の力によって開かれたのです。女性たちの前に現れたイエス様は、もう一度、以前と同じ者として帰ってきたのではありません。まったく新しい命を生きるものとして、私たちの前にその姿を顕されたのです。私たちが普段経験する生や死に捕らわれるのではなく、それらすべてを包み込む、いのちそのものとして、私たちにその姿を示されたのです。直接その姿を顕されることによって、イエス様は復活ということを、口だけではない、頭だけでもない、何かの概念でもない、具体的に触れ、その声を聞くことができるものとして示されたのです。
神様は、この世を愛するがゆえに、その独り子をお与えになりました。それは、たんにこの世のことが好きで好きで、愛おしくてたまらないから、喜んでそうしたのではありません。ご自分の愛するこの世界が、神様を信じないで、神様から離れていき、そして道に迷い、苦しんでいる姿をご覧になり、独り子を遣わす他にはもう救う道がないから、そのようにされたのです。
そして、神様はその独り子を十字架につけました。私たちの思いを、心を、十字架を通してご自分の方へと向けられたのです。十字架の上で苦しみ、息を引き取られたイエス様の姿には、私たちの現実が現れているのです。愛する世界を救うため、神様は独り子を十字架につけました。ですが、神様の御業は、それだけでは終わりません。私たち人間は、確かに神様の裁きの下にあり、死をこの身に負っているのですが、人間はこの裁きによって、新しいいのちへと導き出されるのです。
神様は、私たちを十字架につけることはなさらず、イエス様を十字架につけることで、私たちをこの世界に生かしたまま、死を与えます。その死とは、罪人としての私たちの死です。
神様は、私たちの苦しみをご自分の身に担い、私たちに「生きろ」と言われるのです。神様は、この十字架と復活によって、私たちに全く新しいいのちを与えるのです。私たちは、見た目こそ同じですが、この新しいいのち、私たちが考える生も死も超えた、まったく新しく創造されたものとしてのいのちを、洗礼によって生かされているのです。その与えられた新しいいのちは、もはや私たち自身のためのものではありません。イエス・キリストのいのちを受けているのですから。私たちのすべては、創造主である父なる神様のためのものなのです。
今日、復活のイエス様に出会った二人の女性は、「伝えなさい」という新しい使命が与えられました。この瞬間から、彼女たちもまた新しいいのちを生きているのです。私たちもまた、彼女たちと同じいのちの理由を受けたいと思います。復活の出来事に出会った私たちは、新しいいのちを与えられているのです。私たちのいのちは、今日、他の何よりも輝いているのです。この新しいいのちの輝きで、この暗い世界を照らしていきましょう。それこそが、私たちが教会としてこの世に立たされている理由なのです。今日から、また新しく始めてまいりましょう。

2011年4月17日日曜日

受難主日礼拝説教「十字架を見上げて」

(ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11、マタイによる福音書27:32-56)

 今日は、受難主日の礼拝です。およそ一ヵ月半、わたしたちは四旬節・受難節という暦を過ごしてまいりましたが、皆さんはどのような過ごし方をされたでしょうか。毎年、この期間は自分の好きなもの(お酒、甘いものetc…)を一切絶つ、という方々がおられます。毎年、すごい意志だなあと感心します。この一ヵ月半、日本においては特に、先月の地震で被災された方々のことを思い、本当にたくさんの行事や興行が“自粛”されてきました。大規模なものから、個人的な小規模なものまで。誰もがそうだと思いますが、とてもそんな気分にはなれないのです。今年の受難節、私たちは図らずも、どこか心の底から明るくなれない、そんな気持ちで過ごしてきたように思います。
 前置きが長くなりましたが、今日の礼拝で私たちはもっと暗くなるかもしれません。たとえ明るい気持ちになれなかったとしても、なんだかんだ楽しいこともあった日々だったと思います。でも今日は、いえ、今日から始まる一週間は、いつもより重い気持ちで過ごしていきたいと思うのです。今日は、暗い気持ち、重い気持ちになるような日曜日にしなければなりません。一年のうち、私たちは一日たりともイエス様の十字架を忘れることは無いと思います。そして、一日たりとも神様のことを忘れる日も無いと思います。一年のうち、すべての礼拝で私たちは罪の告白をし、「主よ、憐れんでください」と祈ります。ですが、礼拝において、イエス様の十字架の箇所を直に聞くことは、実はこの週しかないのです。ですから今日、私はいつもより大胆に十字架について語ります。それは、どんなに向き合いたくなくても、私たちが通らなくてはならない道なのです。
 マタイ福音書の始めの方に書かれている、イエス様の誕生に関する出来事の中で、「インマヌエル」という言葉が出てきます。イエス様の誕生が、旧約聖書の預言の成就であることを示す箇所です。生まれてくる子どもは「インマヌエル」と呼ばれる、というこの預言。「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味である、と書かれています。
 神様が、私たちと共におられる。本当に心強い、何よりも心強い言葉です。この言葉によって、私たちのいのちは輝くと言えます。ですが、どうでしょう。神様は私たちと共にいてくださる、そのことを私たちに示して下さったイエス様が、十字架の上で叫ばれるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。イエス様に従っていた弟子たちは、結局逃げてしまいました。イエス様の周りにいた女性たちも、遠くで見ていることしかできませんでした。エリ、エリ、レマ、サバクタニ。彼女たちが見ていた十字架の上で、イエス様は叫ばれたのです。「インマヌエル」と呼ばれるイエス様ご自身が、神よ、なぜわたしを見捨てたのですか、と絶望の叫びをあげるのです。いったい、この状況のどこに神様がおられるというのでしょうか。私たちは、この状況のどこに神様を見出せばよいのでしょうか。

 神様は、おられます。十字架の上におられます。十字架につけられて、苦しんでおられます。この世界を創造された神様が、ご自分の創られた世界の罪を、この世界が犯した罪を、担われたのです。十字架を見上げて、人々は言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。神の子だったら、今すぐ救ってもらえ。」死にゆく人間に対して、最後の最後まで罵るのです。侮辱の言葉を投げつけるのです。ですが、彼らは実は真実を言っているのです。他人を救ったが、自分を救えない。そうなのです。イエス様は、自分を救うためにこの世に来られたのではないのです。イエス様がこの世に人となって来られたのは、私たちと同じ人間となられたのは、私たち人間の世界がどれだけ罪にまみれていようとも、神様から離れていようとも、神様は私たちを愛しておられる、受け入れてくださっているということを意味しています。神様は、私たちを見捨ててはいないのです。どんなに離れていても、神様の方から近づいてきて、私たちをご自分のものとされることを願っておられるのです。
 確かに、神様は私たちを愛しておられます。ですが、その愛ゆえに、神様は私たちを見逃すことはなさらないのです。確かに神様は私たちを赦してくださいますが、それは私たちの罪を大目に見ることとは違うのです。神様はその愛ゆえに私たちを裁くのです。私たちを赦すために、私たちの罪をしっかりと見つめるのです。すべての人間は、この神様の裁きの下にあるのです。
 ですが、神様は私たちに直接罰を下しません。試練はお与えになっても、罰を下すことはされません。私たちを十字架につけることもしません。では、私たちの罪に対する裁きとは、どこにあるのでしょうか。どのようにして私たちは裁かれるのでしょうか。
 それが十字架なのです。私たちの罪は、イエス様が私たちに代わって担ってくださったのです。私たちに代わって、イエス様が裁きを受けられたのです。イエス様が十字架につけられている以上、私たちは十字架を避けることはもはやできないのです。神様の独り子を十字架につけなければならないのが、私たちの現実なのです。十字架を前にした時、私たちは、自分とは無関係だとは言えないのです。十字架の周りにいて罵っていた人、遠くで見ていた人、逃げるという仕方で関った人・・・私たちは、必ずどれかに当てはまります。私たちは、誰もがイエス様を十字架につけたのです。
 ですが、イエス様は自分を裏切った弟子、逃げた弟子を責めません。自分を殴り、鞭打ち、罵った人に対して何も言いません。遠くで見ていた人たちに対しても、何も言いません。ただ、神様にのみ叫ぶのです。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、と。この叫びは、私たちの叫びです。イエス様は、私たちの罪だけではなく、私たちの苦しみをも担ってくださっているのです。私たちが十字架を通してしっかりと神様の方を向くようになるために。私たちが、真に生きるものとなるために。苦しむ私たちと共にいるために、十字架で苦しんでくださっているのです。どこまでも「インマヌエル」であるために、イエス様は十字架の上で叫ばれるのです。
 「わたしの神よ、なぜわたしを見捨てたのですか」この叫びに対する神様の答は、今日読んだ箇所には書かれていません。ですが私は、神様の答は、既にあると思っています。かつてイエス様が洗礼を受けられたときに、天から聞こえてきた声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの(直訳だと、「わたしはあなたを喜ぶ」)」という声です。この天からの声は、このときだけではなく、いつでも、そして十字架の上でも絶えず続いているはずです。そう、神様はイエス様の十字架を喜んでおられるのです。いえ、きっと悲しんでいるのでしょうけれど、それでも喜んでおられるのです。神様は、私たちのために血を流すことを望まれるのです。私たちに代わって苦しむことを望まれるのです。
「あなたのためなら、どんなことでもしよう。罵りも受けよう。裏切りも受けよう。叫びも聞こう。この命も捨てよう。あなたが神と共に生きるようになるために、どんなことでもしよう。」このような神様の思いが、あの十字架には現れています。十字架を見上げて、そこに現れている神様の思いをしっかりと受け止めて、イースターに向けての一週間へと歩みだしてまいりましょう。

2011年4月10日日曜日

四旬節第五主日礼拝説教「イエスを遣わした方」

(エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5、ヨハネによる福音書11:17-53)

 受難節も、終わりに近づいてきました。受難節の終わり、それは明らかにイースター(復活祭)へと向かう歩みなのですが、復活を祝う前に、私たちは最も向き合うことが辛い、最も見たくない、十字架を見上げなければなりません。受難節の歩みは、十字架への歩みなのです。そのことを覚えながら、今日も聖書に聞いてまいりたいと思います。
 さて今日の箇所ですが、受難主日を来週に控え、私たちは一人の女性の素晴らしい信仰告白を聞きました。それは、次のようなものです。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずのメシアであるとわたしは信じております」(27節)。この言葉を、今日私たちも自分の信仰告白としていきたいと思います。
 この言葉を言ったマルタという女性は、何もない状態から、いきなり信仰告白したのではありません。彼女は、悲しみの中にありました。深い深い悲しみ、大切な兄弟を病気で亡くすという悲しみでした。それだけではありません。マルタはイエス様に言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタは、イエス様を責めたのです。イエス様を迎えるために家から出て行ったとありますが、イエス様を見た途端、悲しみと一緒に悔しさもこみ上げてきたでしょう。なぜもっと早く来てくださらなかったのか。なぜ必要な時にいてくださらなかったのか・・・。私たちも、神様を責めたくなるようなことは、よくあります。マルタも、そして32節にあるようにマリアも、同じ思いだったのです。
 ですが、それでもマルタはイエス様を信じていました。22節にあります。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」まるたは深い悲しみと悔しさの中にあっても、イエス様を信じることを止めなかったのです。
 私はここで、マルタは素晴らしく強い信仰を持っている、これを見習うべきだと言いたいのではありません。マルタは、深い悲しみの中にあって、イエス様しか頼るところがなかったということを言いたいのです。イエス様を責めつつも、彼女の拠り所は、イエス様しかなかったのです。マルタは兄弟が死んでもなお「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じています」と言う他なかったのです。それだけ追い詰められた中に、マルタとマリアはいたのです。
 ですが、では何故イエス様はこの2人が悲しむことを知っていながら、すぐにラザロのところに来なかったのでしょうか。2人を悲しませずに済んだのに、なぜこんなに悲しませているのでしょうか。
 それは、今日の日課が始まる前、15節に書かれています。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなた方にとってよかった。あなた方が信じるようになるためである。」イエス様がすぐにラザロのところに行かなかった理由は、ここに書かれている通りです。イエス様は、私たちの願いがすんなりと叶うことよりも、私たちがイエス様を信じる者となることの方を大切にされたのです。私たちが信じる者となる。このことが、大切なのです。
 そして先ほど、マルタの信仰告白、イエス様が神の子、メシアであると言ったとき、彼女は悲しみの中にあったといいました。もう一つ、大変重要なことがあります。彼女の信仰告白は、悲しみの中にあるときに、イエス様に語りかけられ、それに対する答である、ということです。イエス様の語りかけ、それはイエス様の宣言でした。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはない。」兄弟の死を悲しむマルタに、イエス様は宣言されるのです。「わたしが命である。わたしを信じなさい」と。
 私たちにとって、死は恐ろしいものです。誰もが恐れます。普段健康な生活をしていると、時々忘れそうになりますが、身近な人の死や、死そのものの圧倒的な力を目の当たりにしたとき、私たちは本当に大きな悲しみと、絶望感に捕らわれてしまいます。この「死に対する恐怖」というのは、死そのものよりも恐ろしいものです。なぜなら、この恐怖は生きている私たちを捕らえ、生きることの喜びを奪い、私たちの毎日を暗闇にしてしまうからです。
 マルタとマリアが自分の死に対する恐怖を感じていたわけではありませんが、愛する兄弟ラザロの死によって、深い悲しみと絶望の中にあったことは、よく伝わってきます。ですが、この悲しみと絶望、ここにイエス様は栄光を顕されるのです。それはラザロが墓の中から生き返るという仕方で示されますが、これはマルタとマリア、ラザロを喜ばせるために示されたのではありません。ラザロを生き返らせることによって、私たちに示されたのです。死の恐怖に捕らわれている私たち、死がすべての終わりであると思っている私たちに、示されたのです。死は終わりではないということを。死は恐れることではないということを。そのことを私たちに示し、私たちが信じる者となることが、イエス様をこの世に遣わしてくださった神様の思いであり、神様の御心なのです。
私たちを創り、私たちのためにイエス様を遣わしてくださった神様は、私たちの悲しみが悲しみで終わることを望まれていないのです。私たちの苦しみが苦しみで終わることを望まれていないのです。今日の箇所では、感情をむき出しにしているイエス様が描かれています。これが、イエス様を遣わした神様の姿なのです。私たちを恐怖に陥れるものに対して怒り、私たちの悲しみに、涙を流すという仕方で心からの憐れみを示してくださるのです。そして悲しむ私たちに、神様の栄光を現してくださるのです。神様の栄光。それは、神様は愛であられる、ということです。私たちと同じ姿になることを望み、私たちと共に生きることを望み、私たちのために命を捨てることを望まれる。神様は、そのような愛にいます方なのです。
私たちが悲しみの中にあるとき、神様は今日の箇所のイエス様のように、一緒に悲しんでくださっているのです。悲しみは、私たちが信じる者となるために、通らなければならない道なのです。神様も辛いのです。ですが、辛い思いをしてでも、私たちを信じる者としたいのです。なぜでしょうか。一体なぜ、神様はそこまでされるのでしょうか。それは、信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためです(3:16)。
「わたしが命である。このことを信じるか。」イエス様は、今このときも宣言し、私たちに問いかけています。この宣言を信じるとき、私たちの命が、神様の前に価値あるものとして輝いていることに気づかされるのです。この問いかけに対して、マルタの信仰告白を、私たちは自分のものとして告白しましょう。神様は、そうすることを望んでおられます。そして、私たちの命は、神様の語りかけに対して応えることから始まるのです。イエス様の宣言を受けて、この週も歩みだしてまいりましょう。

2011年4月3日日曜日

四旬節第四主日礼拝説教「キリストの光」

(イザヤ書42:14-21、エフェソの信徒への手紙5:8-14、ヨハネによる福音書9:13-25)

 イエス様のご受難を覚える四旬節も、第四主日まできました。これまでの4週間、私たちは本当に人間の直面する苦しみと向き合わざるをえない日々を過ごしております。それと同時に、かつてないほど、人と人との協力が叫ばれています。直面する問題に対して、私たちキリストの教会にできることは一体何なのか。その事を考えるとき、やはり答えは一つであるように思うのです。それは、「キリストの光をこの世に証すること」です。様々な仕方はありますが、教会の基本は、やはり証であるように思うのです。
 今日お読みした福音書の物語も、一人の男性の証が書かれていました。生まれつき目の見えなかった男性が、見えるようになったというものです。この男性について知るために、今日の日課の前の部分、9章1節からの物語について、少し説明させていただきます。
 9章の始め、イエス様とイエス様の弟子が、この男性の前を通りかかりました。怪我や病気などによるのではなく、生まれつき目の見えないこの男性を見て、弟子がイエス様に、この人の目が見えない理由を尋ねます。怪我によるのでも、病気によるのでもない。この人の「目が見えない」という事実を見て、何か理不尽さを感じたのでしょうか。弟子は問うのです。「この人が見えないのは、誰の罪によるのですか。本人ですか、または両親ですか」と。私たちも、何か私たちの目に良くない出来事を目の当たりにしたとき、因果応報的な考え方で、その理由を探ろうとします。そして、納得できる理由を見つけ、悪いと思う出来事をなんとかして受け入れようとするのです。この弟子の考えも同じようなものでした。いえ、当時のユダヤ教の宗教観から言うと、今の私たちが考えるよりも、もっと厳しいものであるはずです。生まれつき目が見えないということは、本人や家族が思うよりも、周りの人々から、罪人・罪深い者だと見られるのです。この目の見えない人や、その家族は、いったい自分がなにをしたのだ、自分の何が悪いのだと思ったこともあったかもしれません。神様を恨んだこともあったかもしれません。生まれつき目が見えないというだけで、社会からのけ者にされ、彼は物乞いをするしかなかったのです。彼は自分の人生を、そのようなものとして受け入れるしかなかったのです。
 ですが、罪のありかをたずねる弟子に対して、イエス様は答えます。「理由は罪によるのではない。神様の業がこの人に現れるためである」そう答えるのです。この目の見えない男性の過去に目を向け、原因を探るのではなく、その苦しい過去を、大きな喜びの理由に変えるのです。苦しみの日々に、大切な意味を与えるのです。それは、「神様の業が現れるため」という理由です。イエス様はその人に奇跡を起こされました。ですが、それは単なる癒しの奇跡ではなく、イエス様が誰なのか、何者であるのかを私たちに示す、大切なしるしでありました。
 さて、少し長くなりましたが、ここから今日の物語が始まるのです。このイエス様の起こされた奇跡、しるしを、信じることのできない人々がいました。ファリサイ派と呼ばれる人たちと、ユダヤ人たちです。彼らは、最初こそ安息日の規定(安息日に働いてはならないという掟)をイエス様が破ったのではないか、という話をしているのですが、すぐに問題の中心が変化します。そしてそれは、今日の日課全体のテーマでもあるのです。問題はただ一つ、「イエスとは誰なのか」ということです。
 イエスとは誰なのか。私たちも、何度もこの問いに出会います。特に、何か大きな試練に直面した時、私たちは無意識の内に、この問いの前に立たされているのです。私たちが「慰めを与えてください」と祈るとき、それは神様が慰めを与えてくださる方であると信じているから、そう祈るのです。私たちが「強めてください」と祈るとき、神様が私たちの心を強めてくださる方であると信じているから、そう祈るのです。そして「神様、どうしてこのようなことをなさるのですか」と問うときですら、私たちは神様が全能であることを、実は認めているのです。
 「イエスとは誰か」という問いに対して、たくさんの研究がなされ、たくさんの言葉が作られてきました。ですから私たちは普通、この問いに対しては、つい知識で答えてしまいそうになります。確かにそれは正しい答なのでしょうけれど、本当に説得力を持つのは、自分自身の体験から「イエス様とは誰か」という問いに答えることです。今日の目の見えなかった男性は言いました。「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただひとつ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。誰が何と言っているのか、それは知らない。ただ、動かぬ事実がここにある。この男性は、自分自身の体験から、信仰告白の言葉を述べるのです。
 なぜこの言葉が信仰告白なのでしょうか。それは、この男性が言っていることが、ただ「目が見えるようになった!よかった!」というだけの話ではないからです。彼は自分で自分のことをはっきりとこう言いました。「目の見えなかったわたしが」と。先ほども申しましたように、目が見えないことが罪と結び付けられて考えられている中での話です。彼にとって「自分は目が見えなかった」と言うことは、人々から「罪深いものである」「罪を犯したものである」と見なされるということなのです。見えないことが罪の結果だと理解されている世の中で、「自分は見えない」と言うことは、罪の告白でもあるのです。それも、身に覚えのない罪です。人々に着せられた罪です。生まれつき、お前は罪を犯したからそのようになっているのだ、と周りから言われる人生は、本当に辛いものだったに違いありません。ものすごい暗闇の中を、彼は生きてきたのです。ところが今や、神様の業がこの男性に働き、その暗闇から、光の中へと導かれました。自分はかつて見えなかった。しかし、今は見える。そう語るとき、この男性は神様の深い深い愛を感じていたことでしょう。神様は、この男性を見捨ててはいなかったのです。彼の苦しみは苦しみで終わるのではなく、むしろ大きな喜びにつながる、大切な道であったのです。
 そして、今日お集まりいただいている皆さん。皆さんも、実はこの男性と同じ言葉を持っているのです。私たちは、キリストとの出会いを通して、その言葉を与えられているのです。私たちも、かつては暗闇の中にいたのです。ですが、キリストとの出会いによって、神様の御業が、私たちには現されているのです。
 イエス様とは誰か。この問いに答えるのに、何も難しい言葉はいらないのです。たった一つ、自分に現された神様の栄光を言い表す言葉を持っていれば、何よりも説得力のある信仰告白になるのです。受難節にあって、かつて暗闇だった自分自身をよく思い出し、今ここに呼び出されている、この神様の愛の大きさ、恵みの深さを思い出したいと思います。暗闇の中を歩んでいた自分、見えなかった自分を救うために、イエス様は来てくださったということを、今ここでもう一度、受け止めたいと思います。その瞬間、暗闇だった過去が、光り輝く未来へと開かれていくのです。
 この一週間も、愛にいます神様に感謝しながら歩んでまいりましょう。私たちの告白が、世界に対してキリストの光を証することになるのです。大胆に告白してまいりましょう。