2011年4月24日日曜日

復活祭説教「与えられる新しいいのち」

(使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4、マタイによる福音書28:1-10)

 イースターおめでとうございます。もし「イースター日和」という言葉があるなら、まさに今日のような日を言うのではないかと思います。本当に素晴らしい天気のこの日に、ご一緒に復活祭の礼拝を守れますことを神様に感謝します。
 私は按手(牧師という職務を与えられる)を受けて、最初に迎えた日曜日が、四旬節第一主日でした。私の牧師人生の始まりは、四旬節と共に始まったのです。そして、この教会に着任したのも、四旬節の真只中でした。私はこのことを神様に本当に感謝しています。それは、皆さんと一緒に、四旬節の日曜日を過ごし、イースターに向けて歩むことができたからです。今日、このイースターから、私たちの教会の歩みを新たに始めていきたいと思います。私たちはいつでも、たどり着いたところからススタートすることができるのです。
 私たちは、この四旬節の間、死というものの持つ力の恐ろしさを、これまでにない仕方で体験しました。あの大きな災害は、直接大きな被害を受けていない私たちにとっても他人事ではありませんでした。私たちが様々なものを通して見聞きした現実、そこには、愛する者を失った悲しみに沈む人々だけではなく、自分が生きていることに対する罪悪感に包まれている人々もいました。まだまだ、私たちは死の力に囚われています。ですが、この死というものを前にして、すべてを捨ててしまったり、ただ立ち尽くしてしまったり、絶望したりすることは、死そのものを信じてしまっているからです。私たちは、いのちを信じましょう。今日、私たちに、唯一にして最大の希望、復活という神様の御業が示されました。私たち人間の恐怖、この世の暗闇は、この復活という神様の新しい創造の業によって、取り去られていくのです。私たちを捕らえようとするこの世界の闇に対する、私たちの逆転が、今日から始まるのです。
今日の福音書を読みますと、最初の部分では、イエス様のお墓は閉ざされていました。大きな石があったのです。お墓に行った女性たちだけでは、おそらく動かせなかったでしょう。しかも、お墓を閉ざしていたのは石だけではありませんでした。復活を信じようとしない兵士もそこにいて、お墓を見張っていたのです。重い石と、人間の力とによって、お墓は守られていたのです。ですが、天使がそこに現れ、その大きな重たい石を動かし、お墓をお墓のままに守ろうとする人間、信仰を攻撃する人間を震え上がらせ、死んだもののようにしたのです。天使が動かしたこの大きな石は、私たちの心を閉ざしている石です。お墓を守っていた兵士は、私たちの心の門の前に立ち、あらゆるものを排除し、私たちの心を頑なに守ろうとする力です。この大きな石と、兵士との力によって守られている限り、私たちの心は閉ざされたままなのです。
ですが今日、この福音書のように、私たちとイエス様とを引き離す力は眠らされ、大きな石は動かされ、天使がその上に座りました。神様の力によって、信仰の邪魔をするものは、その力を失いました。私たちの心は、神様の力によって開かれたのです。女性たちの前に現れたイエス様は、もう一度、以前と同じ者として帰ってきたのではありません。まったく新しい命を生きるものとして、私たちの前にその姿を顕されたのです。私たちが普段経験する生や死に捕らわれるのではなく、それらすべてを包み込む、いのちそのものとして、私たちにその姿を示されたのです。直接その姿を顕されることによって、イエス様は復活ということを、口だけではない、頭だけでもない、何かの概念でもない、具体的に触れ、その声を聞くことができるものとして示されたのです。
神様は、この世を愛するがゆえに、その独り子をお与えになりました。それは、たんにこの世のことが好きで好きで、愛おしくてたまらないから、喜んでそうしたのではありません。ご自分の愛するこの世界が、神様を信じないで、神様から離れていき、そして道に迷い、苦しんでいる姿をご覧になり、独り子を遣わす他にはもう救う道がないから、そのようにされたのです。
そして、神様はその独り子を十字架につけました。私たちの思いを、心を、十字架を通してご自分の方へと向けられたのです。十字架の上で苦しみ、息を引き取られたイエス様の姿には、私たちの現実が現れているのです。愛する世界を救うため、神様は独り子を十字架につけました。ですが、神様の御業は、それだけでは終わりません。私たち人間は、確かに神様の裁きの下にあり、死をこの身に負っているのですが、人間はこの裁きによって、新しいいのちへと導き出されるのです。
神様は、私たちを十字架につけることはなさらず、イエス様を十字架につけることで、私たちをこの世界に生かしたまま、死を与えます。その死とは、罪人としての私たちの死です。
神様は、私たちの苦しみをご自分の身に担い、私たちに「生きろ」と言われるのです。神様は、この十字架と復活によって、私たちに全く新しいいのちを与えるのです。私たちは、見た目こそ同じですが、この新しいいのち、私たちが考える生も死も超えた、まったく新しく創造されたものとしてのいのちを、洗礼によって生かされているのです。その与えられた新しいいのちは、もはや私たち自身のためのものではありません。イエス・キリストのいのちを受けているのですから。私たちのすべては、創造主である父なる神様のためのものなのです。
今日、復活のイエス様に出会った二人の女性は、「伝えなさい」という新しい使命が与えられました。この瞬間から、彼女たちもまた新しいいのちを生きているのです。私たちもまた、彼女たちと同じいのちの理由を受けたいと思います。復活の出来事に出会った私たちは、新しいいのちを与えられているのです。私たちのいのちは、今日、他の何よりも輝いているのです。この新しいいのちの輝きで、この暗い世界を照らしていきましょう。それこそが、私たちが教会としてこの世に立たされている理由なのです。今日から、また新しく始めてまいりましょう。

2011年4月17日日曜日

受難主日礼拝説教「十字架を見上げて」

(ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11、マタイによる福音書27:32-56)

 今日は、受難主日の礼拝です。およそ一ヵ月半、わたしたちは四旬節・受難節という暦を過ごしてまいりましたが、皆さんはどのような過ごし方をされたでしょうか。毎年、この期間は自分の好きなもの(お酒、甘いものetc…)を一切絶つ、という方々がおられます。毎年、すごい意志だなあと感心します。この一ヵ月半、日本においては特に、先月の地震で被災された方々のことを思い、本当にたくさんの行事や興行が“自粛”されてきました。大規模なものから、個人的な小規模なものまで。誰もがそうだと思いますが、とてもそんな気分にはなれないのです。今年の受難節、私たちは図らずも、どこか心の底から明るくなれない、そんな気持ちで過ごしてきたように思います。
 前置きが長くなりましたが、今日の礼拝で私たちはもっと暗くなるかもしれません。たとえ明るい気持ちになれなかったとしても、なんだかんだ楽しいこともあった日々だったと思います。でも今日は、いえ、今日から始まる一週間は、いつもより重い気持ちで過ごしていきたいと思うのです。今日は、暗い気持ち、重い気持ちになるような日曜日にしなければなりません。一年のうち、私たちは一日たりともイエス様の十字架を忘れることは無いと思います。そして、一日たりとも神様のことを忘れる日も無いと思います。一年のうち、すべての礼拝で私たちは罪の告白をし、「主よ、憐れんでください」と祈ります。ですが、礼拝において、イエス様の十字架の箇所を直に聞くことは、実はこの週しかないのです。ですから今日、私はいつもより大胆に十字架について語ります。それは、どんなに向き合いたくなくても、私たちが通らなくてはならない道なのです。
 マタイ福音書の始めの方に書かれている、イエス様の誕生に関する出来事の中で、「インマヌエル」という言葉が出てきます。イエス様の誕生が、旧約聖書の預言の成就であることを示す箇所です。生まれてくる子どもは「インマヌエル」と呼ばれる、というこの預言。「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味である、と書かれています。
 神様が、私たちと共におられる。本当に心強い、何よりも心強い言葉です。この言葉によって、私たちのいのちは輝くと言えます。ですが、どうでしょう。神様は私たちと共にいてくださる、そのことを私たちに示して下さったイエス様が、十字架の上で叫ばれるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。イエス様に従っていた弟子たちは、結局逃げてしまいました。イエス様の周りにいた女性たちも、遠くで見ていることしかできませんでした。エリ、エリ、レマ、サバクタニ。彼女たちが見ていた十字架の上で、イエス様は叫ばれたのです。「インマヌエル」と呼ばれるイエス様ご自身が、神よ、なぜわたしを見捨てたのですか、と絶望の叫びをあげるのです。いったい、この状況のどこに神様がおられるというのでしょうか。私たちは、この状況のどこに神様を見出せばよいのでしょうか。

 神様は、おられます。十字架の上におられます。十字架につけられて、苦しんでおられます。この世界を創造された神様が、ご自分の創られた世界の罪を、この世界が犯した罪を、担われたのです。十字架を見上げて、人々は言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。神の子だったら、今すぐ救ってもらえ。」死にゆく人間に対して、最後の最後まで罵るのです。侮辱の言葉を投げつけるのです。ですが、彼らは実は真実を言っているのです。他人を救ったが、自分を救えない。そうなのです。イエス様は、自分を救うためにこの世に来られたのではないのです。イエス様がこの世に人となって来られたのは、私たちと同じ人間となられたのは、私たち人間の世界がどれだけ罪にまみれていようとも、神様から離れていようとも、神様は私たちを愛しておられる、受け入れてくださっているということを意味しています。神様は、私たちを見捨ててはいないのです。どんなに離れていても、神様の方から近づいてきて、私たちをご自分のものとされることを願っておられるのです。
 確かに、神様は私たちを愛しておられます。ですが、その愛ゆえに、神様は私たちを見逃すことはなさらないのです。確かに神様は私たちを赦してくださいますが、それは私たちの罪を大目に見ることとは違うのです。神様はその愛ゆえに私たちを裁くのです。私たちを赦すために、私たちの罪をしっかりと見つめるのです。すべての人間は、この神様の裁きの下にあるのです。
 ですが、神様は私たちに直接罰を下しません。試練はお与えになっても、罰を下すことはされません。私たちを十字架につけることもしません。では、私たちの罪に対する裁きとは、どこにあるのでしょうか。どのようにして私たちは裁かれるのでしょうか。
 それが十字架なのです。私たちの罪は、イエス様が私たちに代わって担ってくださったのです。私たちに代わって、イエス様が裁きを受けられたのです。イエス様が十字架につけられている以上、私たちは十字架を避けることはもはやできないのです。神様の独り子を十字架につけなければならないのが、私たちの現実なのです。十字架を前にした時、私たちは、自分とは無関係だとは言えないのです。十字架の周りにいて罵っていた人、遠くで見ていた人、逃げるという仕方で関った人・・・私たちは、必ずどれかに当てはまります。私たちは、誰もがイエス様を十字架につけたのです。
 ですが、イエス様は自分を裏切った弟子、逃げた弟子を責めません。自分を殴り、鞭打ち、罵った人に対して何も言いません。遠くで見ていた人たちに対しても、何も言いません。ただ、神様にのみ叫ぶのです。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、と。この叫びは、私たちの叫びです。イエス様は、私たちの罪だけではなく、私たちの苦しみをも担ってくださっているのです。私たちが十字架を通してしっかりと神様の方を向くようになるために。私たちが、真に生きるものとなるために。苦しむ私たちと共にいるために、十字架で苦しんでくださっているのです。どこまでも「インマヌエル」であるために、イエス様は十字架の上で叫ばれるのです。
 「わたしの神よ、なぜわたしを見捨てたのですか」この叫びに対する神様の答は、今日読んだ箇所には書かれていません。ですが私は、神様の答は、既にあると思っています。かつてイエス様が洗礼を受けられたときに、天から聞こえてきた声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの(直訳だと、「わたしはあなたを喜ぶ」)」という声です。この天からの声は、このときだけではなく、いつでも、そして十字架の上でも絶えず続いているはずです。そう、神様はイエス様の十字架を喜んでおられるのです。いえ、きっと悲しんでいるのでしょうけれど、それでも喜んでおられるのです。神様は、私たちのために血を流すことを望まれるのです。私たちに代わって苦しむことを望まれるのです。
「あなたのためなら、どんなことでもしよう。罵りも受けよう。裏切りも受けよう。叫びも聞こう。この命も捨てよう。あなたが神と共に生きるようになるために、どんなことでもしよう。」このような神様の思いが、あの十字架には現れています。十字架を見上げて、そこに現れている神様の思いをしっかりと受け止めて、イースターに向けての一週間へと歩みだしてまいりましょう。

2011年4月10日日曜日

四旬節第五主日礼拝説教「イエスを遣わした方」

(エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5、ヨハネによる福音書11:17-53)

 受難節も、終わりに近づいてきました。受難節の終わり、それは明らかにイースター(復活祭)へと向かう歩みなのですが、復活を祝う前に、私たちは最も向き合うことが辛い、最も見たくない、十字架を見上げなければなりません。受難節の歩みは、十字架への歩みなのです。そのことを覚えながら、今日も聖書に聞いてまいりたいと思います。
 さて今日の箇所ですが、受難主日を来週に控え、私たちは一人の女性の素晴らしい信仰告白を聞きました。それは、次のようなものです。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずのメシアであるとわたしは信じております」(27節)。この言葉を、今日私たちも自分の信仰告白としていきたいと思います。
 この言葉を言ったマルタという女性は、何もない状態から、いきなり信仰告白したのではありません。彼女は、悲しみの中にありました。深い深い悲しみ、大切な兄弟を病気で亡くすという悲しみでした。それだけではありません。マルタはイエス様に言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタは、イエス様を責めたのです。イエス様を迎えるために家から出て行ったとありますが、イエス様を見た途端、悲しみと一緒に悔しさもこみ上げてきたでしょう。なぜもっと早く来てくださらなかったのか。なぜ必要な時にいてくださらなかったのか・・・。私たちも、神様を責めたくなるようなことは、よくあります。マルタも、そして32節にあるようにマリアも、同じ思いだったのです。
 ですが、それでもマルタはイエス様を信じていました。22節にあります。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」まるたは深い悲しみと悔しさの中にあっても、イエス様を信じることを止めなかったのです。
 私はここで、マルタは素晴らしく強い信仰を持っている、これを見習うべきだと言いたいのではありません。マルタは、深い悲しみの中にあって、イエス様しか頼るところがなかったということを言いたいのです。イエス様を責めつつも、彼女の拠り所は、イエス様しかなかったのです。マルタは兄弟が死んでもなお「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じています」と言う他なかったのです。それだけ追い詰められた中に、マルタとマリアはいたのです。
 ですが、では何故イエス様はこの2人が悲しむことを知っていながら、すぐにラザロのところに来なかったのでしょうか。2人を悲しませずに済んだのに、なぜこんなに悲しませているのでしょうか。
 それは、今日の日課が始まる前、15節に書かれています。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなた方にとってよかった。あなた方が信じるようになるためである。」イエス様がすぐにラザロのところに行かなかった理由は、ここに書かれている通りです。イエス様は、私たちの願いがすんなりと叶うことよりも、私たちがイエス様を信じる者となることの方を大切にされたのです。私たちが信じる者となる。このことが、大切なのです。
 そして先ほど、マルタの信仰告白、イエス様が神の子、メシアであると言ったとき、彼女は悲しみの中にあったといいました。もう一つ、大変重要なことがあります。彼女の信仰告白は、悲しみの中にあるときに、イエス様に語りかけられ、それに対する答である、ということです。イエス様の語りかけ、それはイエス様の宣言でした。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはない。」兄弟の死を悲しむマルタに、イエス様は宣言されるのです。「わたしが命である。わたしを信じなさい」と。
 私たちにとって、死は恐ろしいものです。誰もが恐れます。普段健康な生活をしていると、時々忘れそうになりますが、身近な人の死や、死そのものの圧倒的な力を目の当たりにしたとき、私たちは本当に大きな悲しみと、絶望感に捕らわれてしまいます。この「死に対する恐怖」というのは、死そのものよりも恐ろしいものです。なぜなら、この恐怖は生きている私たちを捕らえ、生きることの喜びを奪い、私たちの毎日を暗闇にしてしまうからです。
 マルタとマリアが自分の死に対する恐怖を感じていたわけではありませんが、愛する兄弟ラザロの死によって、深い悲しみと絶望の中にあったことは、よく伝わってきます。ですが、この悲しみと絶望、ここにイエス様は栄光を顕されるのです。それはラザロが墓の中から生き返るという仕方で示されますが、これはマルタとマリア、ラザロを喜ばせるために示されたのではありません。ラザロを生き返らせることによって、私たちに示されたのです。死の恐怖に捕らわれている私たち、死がすべての終わりであると思っている私たちに、示されたのです。死は終わりではないということを。死は恐れることではないということを。そのことを私たちに示し、私たちが信じる者となることが、イエス様をこの世に遣わしてくださった神様の思いであり、神様の御心なのです。
私たちを創り、私たちのためにイエス様を遣わしてくださった神様は、私たちの悲しみが悲しみで終わることを望まれていないのです。私たちの苦しみが苦しみで終わることを望まれていないのです。今日の箇所では、感情をむき出しにしているイエス様が描かれています。これが、イエス様を遣わした神様の姿なのです。私たちを恐怖に陥れるものに対して怒り、私たちの悲しみに、涙を流すという仕方で心からの憐れみを示してくださるのです。そして悲しむ私たちに、神様の栄光を現してくださるのです。神様の栄光。それは、神様は愛であられる、ということです。私たちと同じ姿になることを望み、私たちと共に生きることを望み、私たちのために命を捨てることを望まれる。神様は、そのような愛にいます方なのです。
私たちが悲しみの中にあるとき、神様は今日の箇所のイエス様のように、一緒に悲しんでくださっているのです。悲しみは、私たちが信じる者となるために、通らなければならない道なのです。神様も辛いのです。ですが、辛い思いをしてでも、私たちを信じる者としたいのです。なぜでしょうか。一体なぜ、神様はそこまでされるのでしょうか。それは、信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためです(3:16)。
「わたしが命である。このことを信じるか。」イエス様は、今このときも宣言し、私たちに問いかけています。この宣言を信じるとき、私たちの命が、神様の前に価値あるものとして輝いていることに気づかされるのです。この問いかけに対して、マルタの信仰告白を、私たちは自分のものとして告白しましょう。神様は、そうすることを望んでおられます。そして、私たちの命は、神様の語りかけに対して応えることから始まるのです。イエス様の宣言を受けて、この週も歩みだしてまいりましょう。

2011年4月3日日曜日

四旬節第四主日礼拝説教「キリストの光」

(イザヤ書42:14-21、エフェソの信徒への手紙5:8-14、ヨハネによる福音書9:13-25)

 イエス様のご受難を覚える四旬節も、第四主日まできました。これまでの4週間、私たちは本当に人間の直面する苦しみと向き合わざるをえない日々を過ごしております。それと同時に、かつてないほど、人と人との協力が叫ばれています。直面する問題に対して、私たちキリストの教会にできることは一体何なのか。その事を考えるとき、やはり答えは一つであるように思うのです。それは、「キリストの光をこの世に証すること」です。様々な仕方はありますが、教会の基本は、やはり証であるように思うのです。
 今日お読みした福音書の物語も、一人の男性の証が書かれていました。生まれつき目の見えなかった男性が、見えるようになったというものです。この男性について知るために、今日の日課の前の部分、9章1節からの物語について、少し説明させていただきます。
 9章の始め、イエス様とイエス様の弟子が、この男性の前を通りかかりました。怪我や病気などによるのではなく、生まれつき目の見えないこの男性を見て、弟子がイエス様に、この人の目が見えない理由を尋ねます。怪我によるのでも、病気によるのでもない。この人の「目が見えない」という事実を見て、何か理不尽さを感じたのでしょうか。弟子は問うのです。「この人が見えないのは、誰の罪によるのですか。本人ですか、または両親ですか」と。私たちも、何か私たちの目に良くない出来事を目の当たりにしたとき、因果応報的な考え方で、その理由を探ろうとします。そして、納得できる理由を見つけ、悪いと思う出来事をなんとかして受け入れようとするのです。この弟子の考えも同じようなものでした。いえ、当時のユダヤ教の宗教観から言うと、今の私たちが考えるよりも、もっと厳しいものであるはずです。生まれつき目が見えないということは、本人や家族が思うよりも、周りの人々から、罪人・罪深い者だと見られるのです。この目の見えない人や、その家族は、いったい自分がなにをしたのだ、自分の何が悪いのだと思ったこともあったかもしれません。神様を恨んだこともあったかもしれません。生まれつき目が見えないというだけで、社会からのけ者にされ、彼は物乞いをするしかなかったのです。彼は自分の人生を、そのようなものとして受け入れるしかなかったのです。
 ですが、罪のありかをたずねる弟子に対して、イエス様は答えます。「理由は罪によるのではない。神様の業がこの人に現れるためである」そう答えるのです。この目の見えない男性の過去に目を向け、原因を探るのではなく、その苦しい過去を、大きな喜びの理由に変えるのです。苦しみの日々に、大切な意味を与えるのです。それは、「神様の業が現れるため」という理由です。イエス様はその人に奇跡を起こされました。ですが、それは単なる癒しの奇跡ではなく、イエス様が誰なのか、何者であるのかを私たちに示す、大切なしるしでありました。
 さて、少し長くなりましたが、ここから今日の物語が始まるのです。このイエス様の起こされた奇跡、しるしを、信じることのできない人々がいました。ファリサイ派と呼ばれる人たちと、ユダヤ人たちです。彼らは、最初こそ安息日の規定(安息日に働いてはならないという掟)をイエス様が破ったのではないか、という話をしているのですが、すぐに問題の中心が変化します。そしてそれは、今日の日課全体のテーマでもあるのです。問題はただ一つ、「イエスとは誰なのか」ということです。
 イエスとは誰なのか。私たちも、何度もこの問いに出会います。特に、何か大きな試練に直面した時、私たちは無意識の内に、この問いの前に立たされているのです。私たちが「慰めを与えてください」と祈るとき、それは神様が慰めを与えてくださる方であると信じているから、そう祈るのです。私たちが「強めてください」と祈るとき、神様が私たちの心を強めてくださる方であると信じているから、そう祈るのです。そして「神様、どうしてこのようなことをなさるのですか」と問うときですら、私たちは神様が全能であることを、実は認めているのです。
 「イエスとは誰か」という問いに対して、たくさんの研究がなされ、たくさんの言葉が作られてきました。ですから私たちは普通、この問いに対しては、つい知識で答えてしまいそうになります。確かにそれは正しい答なのでしょうけれど、本当に説得力を持つのは、自分自身の体験から「イエス様とは誰か」という問いに答えることです。今日の目の見えなかった男性は言いました。「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただひとつ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。誰が何と言っているのか、それは知らない。ただ、動かぬ事実がここにある。この男性は、自分自身の体験から、信仰告白の言葉を述べるのです。
 なぜこの言葉が信仰告白なのでしょうか。それは、この男性が言っていることが、ただ「目が見えるようになった!よかった!」というだけの話ではないからです。彼は自分で自分のことをはっきりとこう言いました。「目の見えなかったわたしが」と。先ほども申しましたように、目が見えないことが罪と結び付けられて考えられている中での話です。彼にとって「自分は目が見えなかった」と言うことは、人々から「罪深いものである」「罪を犯したものである」と見なされるということなのです。見えないことが罪の結果だと理解されている世の中で、「自分は見えない」と言うことは、罪の告白でもあるのです。それも、身に覚えのない罪です。人々に着せられた罪です。生まれつき、お前は罪を犯したからそのようになっているのだ、と周りから言われる人生は、本当に辛いものだったに違いありません。ものすごい暗闇の中を、彼は生きてきたのです。ところが今や、神様の業がこの男性に働き、その暗闇から、光の中へと導かれました。自分はかつて見えなかった。しかし、今は見える。そう語るとき、この男性は神様の深い深い愛を感じていたことでしょう。神様は、この男性を見捨ててはいなかったのです。彼の苦しみは苦しみで終わるのではなく、むしろ大きな喜びにつながる、大切な道であったのです。
 そして、今日お集まりいただいている皆さん。皆さんも、実はこの男性と同じ言葉を持っているのです。私たちは、キリストとの出会いを通して、その言葉を与えられているのです。私たちも、かつては暗闇の中にいたのです。ですが、キリストとの出会いによって、神様の御業が、私たちには現されているのです。
 イエス様とは誰か。この問いに答えるのに、何も難しい言葉はいらないのです。たった一つ、自分に現された神様の栄光を言い表す言葉を持っていれば、何よりも説得力のある信仰告白になるのです。受難節にあって、かつて暗闇だった自分自身をよく思い出し、今ここに呼び出されている、この神様の愛の大きさ、恵みの深さを思い出したいと思います。暗闇の中を歩んでいた自分、見えなかった自分を救うために、イエス様は来てくださったということを、今ここでもう一度、受け止めたいと思います。その瞬間、暗闇だった過去が、光り輝く未来へと開かれていくのです。
 この一週間も、愛にいます神様に感謝しながら歩んでまいりましょう。私たちの告白が、世界に対してキリストの光を証することになるのです。大胆に告白してまいりましょう。