2011年5月8日日曜日

復活後第二主日「信じることの難しさ」

(ヨハネによる福音書20章24-29節)

 人それぞれだとは思いますが、私にとって「神様を信じる」という言葉の意味は、神様を「信頼する」という意味が最も大きいです。「信頼する」とは、信用して任せるという意味ですから、現在のことだけではなく、未来のことも含む、時間を超えた関わりが生まれます。私たちは、未来のことは見ることができません。知ることもできません。わからないのです。この「わからない」というところに立つとき、「信頼する」という関係が成り立つのです。「信じる」のは、わかっているから信じるのではなく、わからないから信じるのです。
 その意味において、今日のイエス様の言葉は、私たちに大きなチャレンジをしてきます。「見ないのに信じる者は幸いである。」この言葉から、私たちが真っ先に受け取るメッセージは、「見ないで信じる者になりましょう」というものだと思いますが、残念なことにこれが本当に難しいのです。というのも、「信じなさい」という呼びかけに対して、私たちはこう思うからです。「なぜ信じなければならないのか」「信じることに何の意味があるのか」「信じるに値するものはあるか」「そもそも、何を信じるのか」。他にもあるかもしれません。「信じなさい」という呼びかけに対して、これぐらいの疑問はすぐに出てきます。「信じる」という行為には、「決断する」という要素も含まれているのです。私たちにとって、見えないもの・わからないものに対して決断していくことほど、大変なことはありません。
 そしてやはり、聖書の中にも、見ていないものは信じることができないという人がいました。今日の福音書に登場する、トマスという人です。彼ははっきりといいました。「この目で見るまで、この手で触れるまで、信じない」と。ここで言われている「信じない」とは、「復活という出来事」を信用することができない、そんなことはあるはずがない、という意味ですが、広い意味でとらえるならば、復活という神様の御業を、さらに言えばイエス様を復活させた神様を信じることができない、という意味でとらえることができます。深読みしすぎかもしれませんが、でもトマスの内側には、そのような思いがあったはずです。
 では、トマスとはどのような人でしょうか。今日の箇所だけを見ますと、大変疑い深い、現実主義者のような、まるで信仰者としては“悪い例”であるかのような印象を受けます。ですが、ヨハネによる福音書は、他の箇所でもトマスについて伝えています。そちらでは、どのように書かれているかを見たいと思います。
 11章16節では、友人ラザロが死んだという知らせを聞いたイエス様が、ラザロのところへ行こうと言ったとき、トマスは仲間たちに言いました。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と。これは、なかなか言える言葉ではありません。どこまでもイエス様についていくのだという強い意志があります。もちろん、彼の言ったことはその通りにはならず、最終的にラザロがお墓の中から出てくるという大きなしるしを目撃することになるのですが、きっとトマスは、そのしるしを見て心が燃えたと思います。
 もう一か所あります。14章に出てくるのですが、イエス様に従ってどこまでも行こうとする、彼らしい発言があります。「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。」「わたしがいるところに、あなたがたもいることになる。わたしがどこに行くのか、あなたがたは知っている」と、イエス様が不思議なことを言ったとき、トマスはそれを聞いていた人の心を代弁するかのように、イエス様に言いました。「主よ、どこに行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道をしることができるでしょうか」と。自分がどこに連れて行かれるのか、彼は知りたかったのですが、イエス様はただ「父のもと」とだけ言い、あとは従いなさい、とだけ言います。このトマスの質問に対するイエス様の答えは、あの有名な言葉「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉なのです。
11章の時点では、トマスは非常に熱い信仰を持ち、自分の命をイエス様のためにささげるという、強い思いがあることを見ることができます。その先にしるし、奇跡があるとは知らなくても、イエス様に従っていくのです。ですが、14章の言葉を聞くと、少し違った印象を受けます。先ほどとは変わって、どこか弱々しい、不安のようなものが見えます。
そして今日の箇所で、ついにトマスは最大の弱音を吐くのです。「この目で見るまで、この手で触れるまで、決して信じない」と。復活を信じることができない人間が、ここにもいました。彼の心は、言葉からよく伝わってきます。大変頑なになっています。主と一緒に死のう、と言っていた人が、「道・真理・命」という言葉を直接聞いた人が、こんなにも心を閉ざしているのです。これはただごとではありません。ただ、イエス様を知らない人が、復活と聞いて「いや、そんな非常識なことを信じることはできないよ」と答えるような、軽い言い方ではないのです。単なる疑いではないのです。彼は、「信じられなかった」のです。道であり、真理であり、命であるイエス様を、彼は見失っていたのです。
これは、ゼロの状態ではありません。プラス10からマイナス10、あるいはそれ以上の落差を経験した人の言葉です。信じる道を失った人がどうなるか、想像に難くありません。ずっとこれが正しいと思い、そう信じてきたのに、実はそうではなかったということは、私たちが生きている間も時々起ります。日本も、8月15日を境目に道を失いました。この教会にも、それを体験された方はおられるでしょう。トマスの心もそうだったのです。単に、復活という非科学的なことが信じられなかったのではありません。神様を信じられなくなっていたのです。
ですが、そのようなトマスのところに、イエス様は顕れるのです。「平和があるように」は、先週の説教の中で中心にあった言葉でした。これが今日も語られています。イエス様は、トマスに対しても、赦しを語っているのです。「信じない」というトマスの叫びを、イエス様は受け入れてくださっているのです。トマスを受け入れてくださっているのです。手と脇腹の傷は、単なる証拠ではなく、その傷の理由をトマスに思い起こさせたでしょう。イエス様の傷は、トマスのためにも負った傷なのです。
イエス様が、信じなさい、信じなさいを言う理由、またこの福音書が繰り返し信じることを強調する理由は、私たちがいのちを受けるためなのです。神様も、福音書を書いた人たち、伝えた人たちも、私たちに命を与えるためにそうしたのです。
ですが、「信じなさい」と繰り返し言うことや、このトマスの物語が書かれているということは、信じることがどれほど難しいかを表しています。信じることの難しさ、信じるという決断の難しさを、書き手はよく理解しているのです。
だから、「信じなさい」というのも、ただ文句を言わず、盲目的になりなさい、という意味ではありません。イエス様はちゃんと答えてくださるのですから、聞いてくださるのですから、問い続ければいいのです。わからないなら、その思いを内に秘めておくのではなく、堂々と神様に向かって「わかりません!」と言えばいいのです。その「わかりません」「信じません」という問いが、「わが主、わが神よ」という信仰告白へとつながる、大切な道なのです。
ここに書かれているのは、答えてくださるイエス様、顕れてくださるイエス様です。問い続ける中で、やがて答えが与えられ、神様がされることはすべて正しい、と言える日が来るのです。そこに向かう道も、信仰の歩みなのです。このような純粋な歩みを、私たちも続けていきたいと思います。

2011年5月1日日曜日

復活後第一主日説教「平和がありますように」

(ヨハネによる福音書20:19-23)

 今日の福音書の箇所で、イエス様が弟子たちに言われた言葉「あなたがたに平和があるように」とは、おそらく「シャローム」という言葉であっただろうと言われています。教会ではよく聞く言葉です。「主の平和が、あなたがたにあるように」という意味です。これは、当時も今もごく一般的な、普通の挨拶の言葉です。イエス様は、婦人達に「おはよう」と語りかけられたように、弟子たちにも、何の変哲もない、普段どおりの挨拶をしたのです。
 ですが、この普段どおりの挨拶に、深い意味が込められているのです。ここに書かれている出来事は、弟子たちに対するイエス様の赦しの出来事なのです。「平和があるように」とは実は赦しの言葉なのです。
 弟子たちは、ユダヤ人を恐れていました。イエス様の仲間であるということを告発されたら、自分たちも同じ目に遭ってしまうかもしれません。たとえ殺されなくても、神殿から追い出されるかもしれません。もう前と同じように、外を歩くこともできないかもしれません。きっと彼らは、自分たちは神様から遠いところにいる、と感じていたことでしょう。なにより、彼らはイエス様を見捨てて逃げました。信頼していた自分たちの主を、いつも従っていた主を見捨て、逃げたのです。ここで閉じこもっている弟子たちは、単に希望を失っていただけではありません。きっと彼らの中には、罪悪感もあったと思うのです。
 直前の箇所を読んでみますと、どうやらこの弟子たちはイエス様の復活を聞いていたようです。しかし、すぐに喜びませんでした。まだ恐れていました。なぜでしょうか。ただ復活を信じられなかったというだけでしょうか。私は、ここに彼らの罪悪感が関係しているのではないかと思うのです。
 イエス様の十字架に、彼らは自分の罪を見ました。イエス様は十字架に進まれましたが、弟子たちは逃げました。一番肝心なところで、彼らはイエス様に従わなかったのです。ああすればよかった、こうすればよかった、もっと自分にはなにかできたのではないだろうか、自分の選択は間違っていたのだろうか・・・私たちが大切な人を失ったとき、いつも思うあの思いを、弟子たちも感じていたのではないでしょうか。しかも逃げたという事実があります。もはや、彼らはイエス様に合わせる顔などなかったのではないでしょうか。復活されたイエス様に出会っても、何と言えばいいのかもわかりません。当然何事もなかったように挨拶なんてできません。また、何と言われるかわかりません。「お前はあの時、わたしを見捨てて逃げただろう」と言われてもおかしくないのです。彼らが抱いていたのは、イエス様を失った絶望感だけではないのです。逃げることを選んだ罪悪感、イエス様を見捨ててしまった自分に、彼らは絶望していたのではないかと思うのです。そのような中で、もう一度ユダヤ人のコミュニティに戻ることもできません。彼らは完全に行き場を見失っていたのです。
 しかし、イエス様は弟子たちの中に現れると、言われました。「平和があるように(シャローム)」と。この普通の挨拶が、部屋に鍵をかけて閉じこもるしかなかった弟子たちにとって、どれほど大きな救いだったでしょうか。イエス様は彼らを責めなかったのです。復活の後、動くことができなかった弟子たちの中に現れ、自ら近づき、落込んでいる弟子たちを励まし、力づけ、そして聖なる霊を与えたのです。これが赦し以外の何でしょうか。
 イエス様は、彼らを恨んでいないのです。私たちは普通、自分を裏切った相手に会ったとき、普通の挨拶はできません。自分を見捨てた人にすすんで近づいていって「平和がありますように」という美しい言葉はかけません。顔を見たら、怒りをぶつけてしまうかもしれません。いえ、顔も見たくないかもしれません。とてもその人のために平和を祈ることなんてできません。ですが、そのような私たちに、イエス様は語りかけるのです。「平和があるように」と。ご自身が負った傷を見せながら。弱い私たちに、語りかけてくださるのです。イエス様は、合わす顔がない私たちの中心に立ち、優しく「平和があるように」と言われるのです。
 ここに赦しがあります。復活のイエス様の「平和があるように」の一言で、弟子たちは赦しを“体験”しました。傷を負ったイエス様が、本物のイエス様が、死を越えた。救いは完成していた。そのことを、弟子たちは理解したのです。
 ここに赦しの根拠があります。私たちはこのようにイエス様に赦された存在だから、赦すものとなるのです。四旬節の間、言葉を変えながら繰り返し言いましたが、私たちは誰一人、イエス様の十字架を前にして「自分とは関係ない」と言うことはできないのです。私たち全員に、イエス様を十字架につけた罪があります。ですが、それでいいのです。私たちはまるでイエス様を十字架につけない生き方が素晴らしく、そのように生きなければならないと思ってしまいますが、そのような生き方は十字架から離れてしまう生き方です。十字架から離れようとする人生は、神様から離れようとする人生です。その反対で、イエス様の十字架をしっかりと受け止めていく人生は、神様と共に歩む人生なのです。大切なことは、もちろん神様と共に歩むことです。
 イエス様の十字架をしっかりと見つめる・受け止めることは、私たちが一番見つめたくない自分自身と向き合うことです。それは大変辛いことです。今日の弟子たちのように、暗く、行き場を見失うかもしれません。ですが、そこにイエス様は語りかけてくださるのです。復活されたイエス様は、もはや私たちを断罪しません。私たちは、赦されているのです。この“赦されている”ということが、復活の前と後の最大の違いです。私たちは、この赦しの中を今も生きているのです。
 復活のイエス様は、私たちの交わりの中心にいつもいてくださいます。そこから私たちに「平和があるように」と語りかけてくださっています。この言葉にあるように、イエス様が望んでおられることは平和です。赦しです。イエス様は十字架にかかる前に言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。それがわたしの掟である」と。愛することは楽ではありません。大変難しいことです。基本的に私たちは、自分が愛したいようにしか愛することができないからです。それに、人を赦すことは、もっと難しいといえます。私たちは、愛するより憎むことの方が容易にできてしまいます。赦すことより、裁くことの方がはるかに簡単です。それが私たちの性質なのかもしれません。だからイエス様は言われるのです。「あなたがたを遣わす」と。赦しを体験し、赦しを知った私たちは、たとえ赦すことが難しくても、この赦しの喜びを伝えていかなくてはならないのです。
それは、私たちが赦すという仕方でなければ伝わりません。
 「あなたがたが赦せば赦され、赦さなければ赦されないまま残る」とは、本当に大きな責任のある言葉です。私たちに赦しの権限が与えられたのですが、これは赦すも赦さないも私たちの好きにしてよい、ということではありません。イエス様は、明らかに赦すために私たちにこの権限をお与えになっています。喜びと共に。せっかく与えられた赦しを、誰が裁きに用いようとするでしょうか。せっかく与えられた愛を、誰が憎しみに変えたいでしょうか。私たちは、私たちと同じように赦しを必要としている人たちに、それを伝えていくようにと、召されているのです。
 赦すことの難しさは、イエス様の傷が物語っています。愛することの大変さは、イエス様が流された血が物語っています。私たちが人を愛することで負う傷は、イエス様が負ってくださっています。私たちはどんなに辛くても、孤独ではないのです。
ですから、もう罪に捕らわれることのないように、私たちもお互いに、そして外に向かって、宣言していきたいと思います。「あなたに平和がありますように」と。神様の赦しに、仕えてまいりましょう。