2011年9月18日日曜日

聖霊降臨後第十四主日「今ここにいるということ」

(マタイによる福音書18章1-14節)

 私たちの社会を言い表す言葉として「競争社会」というものが使われるようになってから、どれくらいの時間が経ったでしょうか。言葉にすると、確かによく言い表していると思いますが、こうも何度も何度も使われると、新鮮さを失い、気にもとめなくなります。「競争社会」という言葉も、そのように使われすぎて、私たちは全員飽きてしまったのかもしれません。最近は、一昔前のような雰囲気すら出ています。
 ですが、もちろん私たちが生きている世界から競い合いの要素がなくなったかといえば、まったくそんなことはありません。競いながら前に進むことは、私たち人間の性質のようなものです。今日も、私たちは競い合いながら前に進んでいます。本当は全員で一緒に一歩を踏み出すことができればいいのかもしれませんが、自分が前に進むためには、残念ながら誰かに勝たなければなりません。そして、そのような勝負に負けた人や、そもそも勝負の舞台に立っていない人は、この世界の“大きな人たち”の前に、何故か劣等感を抱きながら生きなければならないのです。そんなことがずっと繰り返されながら、私たちの歴史は作られてきました。
 その時その時で必要な人材や物が求められるということは、世界を回すためには必要なことでしょうから、私はそのことのすべてを否定しませんが、どう考えてもおかしいと思うのは、その時にかなっていなかったからといって、あるいはその人に力がないからという理由で、その人のいのちそのものが必要とされていないとされてしまうことです。また、そのような人が、自分自身のいのちの理由を見出すことができなくなることです。競い合いの世界、つまり上を目指す世界の中で、残念ながら人間の考え方は、そのようになってしまうのです。
 自分に何かしらの価値を与えるために努力し、自分の価値を知ってもらうために奮闘する。大切なことだとは思いますが、それがすべてになってしまうと、私たちは自分以外の人を否定してしまういのちを生きることになってしまうのです。「あの人にはないものを自分は持っている」「あの人にできないことが、自分にはできる」「そのような自分は偉い」自分は凄いと思うために、一生懸命大きく見せようとすることもあります。そして、「できないあの人はダメだ」「できない自分はダメだ」など・・・。これらの姿は、どれも本当に息苦しいものです。必要とされるかされないかで、お互いに裁き合い、そして自分を裁くのです。そこには本当にみっともない、いのちの本質が見失われた自己主張しかないのです。人間の自己義認の最たる姿であると言えるかもしれません。
 
 前置きが長くなりましたが、今日のイエス様ははっきりと、そのような価値観から向きを変えなければ、天の国に入ることはできない、と言われます。「天の国で一番大きいのは誰か」という質問に対して、子どもを一人呼び出して言うのです。「自分を低くして、この子どものようになる人が、一番大きいのだ」と。この子ども、イエス様によって呼び出されて、今中心に立たされているこの子どもは、自分から前に進んできたのではありません。呼ばれたことを自慢してもいません。誇らしく思っている様子もありません。もしかしたら、自分が呼ばれた理由もわかっていないかもしれません。そのように、ただ呼ばれたから立っているという人が、「自分を低くするもの」であると言うのです。自分は価値があるから呼ばれたとか、自分の努力によって、この「呼ばれる」ということを勝ち取ったとか、そういったことではないのです。つまり、私たちが生きている世界の方向とはまったく違う方向に、天の国は、神の国はあると言うのです。
 本当にその通りなのです。一生懸命自分の力を誇示し、あるいはないものをあるように見せたりして、人との競争や裁き合い・蹴落とし合いの中で生きているいのちの中に、天の国はないのです。その意味で、この世界はつまずきだらけです。つまずきに満ちています。だからイエス様は、そのようなつまずきの中に生きるぐらいなら、片手片足になっても、片目になっても、いのちにあずかるほうが良い、と言うのです。確かに、できていたことができなくなることや、あったものがなくなるということは、わたしたちにとって本当に大きな挫折の原因になりますが、そのようになって初めて向き変わることができるのなら、その方が良いと言われるのです。時々わたしたちは、本当に強引に大切なものを失いますが、それはきっと、私たちが向き変わるために必要なことなのです。
 今日の箇所の最後に、「失われた羊のたとえ」が出てきます。わたしたちの誰もが好きな箇所であると言ってもいいでしょう。そう、わたしたちはこの羊、失われ、見つけ出され、羊飼いに喜ばれた羊なのです。この羊は、自分が見つけ出され、喜ばれたことを、他の99匹よりも優れているからだとか、自分だけが特別だからだと考えはしないでしょう。他の99匹に自慢することもないでしょう。むしろ、何の価値も見出せない自分のために、遠い道を探しに来てくれた羊飼いに感謝し、自分以外の羊も羊飼いにとっては大切であるということを知るようになるでしょう。わたしたちの歩みもそのようでありたいと思います。
 イエス様も、この世で最も小さく、価値のないものとして捨てられたものとして、十字架にかかりました。あの十字架から、イエス様はわたしたちを呼ばれるのです。「この世の価値観を捨て、このわたしに従いなさい」と。十字架に従いなさいと言われるのです。このイエス様の声をしっかりと聞きながら、今週も歩んでまいりましょう。この世界の価値観とはまったく逆の方向に、イエス様はおられます。今日この礼拝で勇気を受けて、たくさんイエス様に出会っていけるような一週間にしてまいりましょう。