2011年10月30日日曜日

宗教改革主日説教「神様の前で、神様と共に生きる」

(ヨハネによる福音書2章13-22節)

今日は「宗教改革主日」です。これは1517年、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城門に「贖宥の効力を明らかにするための討論(95ヶ条の提題)」を掲示した日が、10月31日といわれていることから、宗教改革の始まりの日として記念されているものです。特に、ルターの名前がついている私たちルーテル教会にとっては、特別な日であります。誕生日といってもいいかもしれません。
 ですが、私は今日、そのルターの偉業をたたえるような説教をするつもりはありません。それに、いわゆる「信仰義認論」についての説明をするつもりもありません。今日、この日のために選ばれている聖書の言葉から聞くことで、この宗教改革主日を記念し、守りたいと思います。
 今日の福音書の物語は、イエス様の「宮清め」と言われている物語です。これはヨハネによる福音書だけではなく、マタイ・マルコ・ルカという他の3つの福音書にも書かれています。珍しく4つの福音書すべてに記されているものですが、ヨハネの場合、他の3つとは違い、「しるし」という大切なテーマが裏側に流れています。この「しるし」というのは、単なる奇跡ではなくて、その奇跡を通して、イエス様がいったい何者であるのかを表すもののことです。目に見える出来事を通して、目に見えない深い意味が顕されているのです。
 このヨハネによる福音書における「宮清め」の意味とは何でしょうか。イエス様は神殿で、「羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒す」という、信じられない行動を取りました。普段私たちがイメージしているような、優しいイエス様とはかけ離れています。このようにして、神殿から商売や人間の欲を追い出し、聖なる場所として回復させているかのように見えます。ですが、果たして本当にそうでしょうか。
 実はこれは、神殿を商売の場所にしてはいけないというだけの話ではないのです。神殿では正しく礼拝されなければならないとか、当時のユダヤ教が腐敗していたとか、そういった話ではないのです。イエス様はなぜこんなにも激しく人々を攻撃したのでしょうか。批判なんてものではありません。見方によっては、暴力的ですらあります。そこまでして、この神殿で行われていたことを破壊しています。なぜでしょうか。 ここでイエス様は、商売だけを追い出しているのではないのです。神殿で行われていること、礼拝そのものを破壊しているのです。
 当時、神殿で礼拝するとき、生け贄がささげられていました。神殿で売られていたのは、遠くから訪れた巡礼者たちが生け贄として用いるための動物だったのです。その動物たちがいなければ、礼拝を行なうことはできません。イエス様はこれらの動物たちを追い払うことで、これからはこのような場所も、動物たちを用いた生け贄も、もう必要ないということを示されたのです。神殿から生け贄を追い出し、神殿が神殿であることを否定することによって、これまであったものに替わる新しいものが与えられるということが、この物語で言われているのです。今までの契約に従ってささげられていた生け贄に替わって、イエス様ご自身が生け贄となり、人間と神様との新しい契約を示されたのです。もう必要ないから、イエス様は破壊したのです。
これまで、エルサレム一か所にしかなかった神殿に替わって、これからはイエス様がささげられる場所、イエス様がおられる場所が、正しい礼拝の場所になるということを示されたのです。それも、私たち人間がイエス様を神様にささげるのではありません。神様が、私たちのために、イエス様をささげてくださったのです。ここに、神様と私たちとの新しい契約があります。人間が、神様に赦していただくために、神様に対して何かするのではありません。神様が、人間を赦すために働きかけてくださるのです。あくまで、神様からの行為としての礼拝が行われるようになるのです。
私はこのことに、今日の福音書の箇所が宗教改革主日に選ばれている理由を感じています。人間を神様の前で正しく人間であらしめるために、イエス様は余計なものをすべて破壊しました。ルターも、当時の教会が作り出した様々な制度に立ち向かっていきました。それはルターが他の何にもよらず、ただイエス様を通して、自分の罪を赦し、正しく一人の人間として立たせてくださる神様の愛を知ったからです。私たちは、神様の義の味を知っています。私たちのために独り子をお与えになり、私たち一人一人を、ご自分の前に正しく人間として立たせてくださり、ご自分の愛の器として私たちを用いてくださる方の愛を知っています。
イエス様が顕してくださった最大のしるし、それはまさに、今までのものがすべて破壊され、3日後に新たないのちとして私たちに示され、与えられた出来事、あの十字架と復活です。私たちは、この神様の義によって、今も御前に立っているのです。私たちは、受け取ることしかできません。御言葉も、御身体も、受け取ることしかできません。ですがそれは、受け取った私たちが、この世を生きていくために、この暗闇の世にあって、キリストのようにこの世の光として歩んでいくために、神様がそのようにしてくださっているのです。
今、私たちが「教会」という言葉を使うとき、多くの場合はこの建物を意味しています。ですがこれはあくまで礼拝堂という建物であって、教会そのものではありません。教会とは、キリストのからだなのです。この世に受肉し、十字架につけられ、復活したキリストのからだです。では、そのキリストのからだとは何でしょうか。抽象的な何かでしょうか。漠然としたものでしょうか。それとも、やはり建物でしょうか。どれも違います。キリストのからだは、いつでも具体的なものです。なぜならそれは、私たち自身だからです。私たちの古いいのちは、イエス様と一緒に十字架につけられました。今、私たちが生きているのは、もはや私たちではありません。イエス様ご自身が、私たちの中に生きておられるのです。何もおそれることはありません。私たちは今、この神様の前で正しく私たち自身とされ、この私たちを愛し、私たちを立たせてくださる神様と共に、新たに歩みだしていくのです。この世にあって、教会とは建物でも組織でもなく、神様の前に立ち、神様と共に生きる私たち自身なのです。
私たちは、神様に赦されるということを知っています。神様に愛されるということを知っています。そして、私たち自身がそれぞれの十字架を負って歩んでいます。私たちは、イエス様が他者のために、私たちのために苦しみを受けられたことを知っています。これが大切なのです。それらのことを知っている私たちには、神様の愛が宿っているのです。これからは、私たちが神様の臨在を顕し、神様の愛を顕す神殿として、立っていくのです。

2011年10月28日金曜日

11月3日は「ルーテルバザー」!

11月3日は、毎年恒例の「ルーテルバザー」があります!


会場は教会です。集まったさまざまな遊休品や野菜、手作り本格キムチなどを売ります。


また、カレーや焼きそばなどもあります。3日のお昼は教会でいかがですか。


途中、牧師によるギター弾き語りライブもする予定です。


午前10時半から午後2時まで開かれています。お誘いあわせの上、ぜひお越しください!

2011年10月1日土曜日

夕礼拝を行っています。

私たちルーテル甲府教会では、日曜日の夜にも礼拝を行っています。
一日を終え、静かな雰囲気の中、祈りの時をもちます。

午前中の礼拝に出席することができない方や、少人数を好まれる方は、
ぜひ夕礼拝に足をお運びください。

19時半から20時10分頃までです。