2011年11月12日土曜日

11月20日の礼拝

ルーテル学院大学名誉教授 徳善義和先生をお迎えして、説教をしていただきます。
貴重な機会ですので、是非お出かけください。お待ちしています。
         
徳善義和(ルーテル学院大学名誉教授)

【 略 歴 】

1932年、東京生まれ。

東京大学工学部土木工学科卒業、立教大学大学院修士課程修了、 日本ルーテル神学校卒業、ハンブルク・ハイデルベルク両大学神学部留学。 神学博士。

日本ルーテル神学校教授、校長、同ルター研究所所長、神戸ルーテル神学校客員教授、日本キリスト教協議会(NCC)議長、日本エキュメニカル協会理事長などを歴任。

【 主な著書 】

・『神と乞食――ルター・その生と信仰』(聖文舎)
・『ルター』(平凡社)
・『自由と愛に生きる――『キリスト者の自由』全訳と吟味』
・『マルチン・ルター――生涯と信仰』(教文館)など多数。
・『ローマ書講義』上下
・『ガラテヤ大講解』上下(いずれも『ルター著作集』聖文舎所収)などルターの翻訳多数。
                                       


2011年11月6日日曜日

全聖徒主日説教「キリストは勝っている」

(ヨハネによる福音書16章25-33節)
 私たちは毎年、11月の第一日曜日に、この「全聖徒主日」という日の礼拝を守っています。多くの教会は、このように先に天に召された方々の写真を礼拝堂に飾り、偲ぶ時を持っています。ここに飾られている写真の中のお一人お一人は、そしてここに飾られていなくても、今私たちが思い起こしているお一人お一人は、かつて私たちと一緒にいて、楽しいことも、辛いことも一緒に経験した人たちです。今、この人たちの写真を前にして、私たちは何を思うでしょうか。この人たちが亡くなられたとき、私たちは何を感じたでしょうか。この人たちは、私たちに何を教えてくれているでしょうか。本当に様々あると思います。「身近な人を亡くす」「親しい人を亡くす」ということは、生きていれば誰もが必ず経験することです。そして、私たちは「死」が、いつも理想的な形で訪れないということも、少しずつ学んでいきます。そして私たちも、いつ・どのように召されるのかわからない中を生きています。
 そして私たちは、親しい人を亡くし、悲しみの中に、どんなに深い悲しみの中に沈んだとしても、それぞれの場所へとまた帰っていきます。それまでずっと一緒にいたのに、ずっと一緒に過ごしてきたのに、その人を一人ぼっちにし、そして私たちも大きな喪失感を覚えながら、それぞれ再び自分の場所に戻り、その人のいない人生を歩み始めます。その意味で、私たちはどんなに誰かと一緒にいても、孤独なのです。私のいのちは私のいのちであって、他の誰かが私のいのちを生きることはできません。その逆、つまり私が他の誰かのいのちを生きることもできません。普段は見えてこないこの当たり前の現実を、あらためて突きつけられるのが「誰かの死」という出来事です。「誰かの死」という出来事は、私たちが孤独であるということを嫌でも教えてきます。私たちが、死に対して本能的に感じる恐怖とは、この孤独に対する恐怖なのかもしれません。
 正直に言いますが、私は恐れています。自分自身が孤独になってしまうことも、怖くないと言えば嘘になってしまいますが、ですがもっと恐れていることは、今、親しくしている人との別れです。いずれ必ず訪れるその時を、私は恐れています。今までも、親しくしていた人との別れは、必ず私に後悔をもたらしました。そして、どんなに楽しい時間を一緒に過ごし、支え合ったとしても、結局お互いに一人きりにならなければならないという、あの孤独感、さらに言えば、その人を一人きりにして、結局自分の日常に戻らなければならない悲しさを味わうことを、私は恐れているのです。遺されたものが必ず味わう悲しさは、その人のいない日常を、それでも生きていかなければならない辛さではないでしょうか。それは、遺された私たちが感じる孤独ではなく、私たちから離れていった人たちを孤独にしてしまう、いわば罪悪感のようなものではないかと思います。
 今、ここに飾られている写真の中のお一人お一人も、それぞれがご自分の死を経験されたのです。そして、私たちが離れていくということを経験されたのです。あんなに一緒にいたのに、もう一緒ではない。あんなに支え合ったのに、もうそれができない。そのような経験です。
 では、それからはいったい誰が、このお一人お一人と一緒にいるのでしょうか。いったい誰が、このお一人お一人を支えるのでしょうか。それh、私たちの主イエス・キリストの父である、神様です。これは、ありきたりの答えでも、キリスト教的な単なる綺麗事でもありません。今日の福音書の箇所で、イエス様は言われました。
 
「あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、わたしを一人きりにするときがくる。いや、すでにきている。しかし、わたしは一人ではない。父が、共にいてくださるからだ。」(32節)

 このイエス様の言葉は、イエス様ご自身が体験された事実であり、私たちに語られた、イエス様の約束なのです。遺された私たちが悲しみの中に沈み込み、絶望することのないように、そしてやがて召されていく私たちが、孤独に怯えることのないように、イエス様はご自分の十字架の死を通して、私たちに教えてくださっているのです。十字架の死は、孤独の極みです。弟子に裏切られ、逃げられ、人々から捨てられて、しかも無残にもさらされているのです。ですが、そのような孤独の極み、悲しみと絶望の極みを、実は神様が支えておられるのです。この世の目、人間の目には孤独に見える十字架ですが、神様が成し、神様が支えておられるのですから、むしろ孤独とは離れているのです。そこには、本当の平安があります。私たちが心の底で求めている、本物の救いがあるのです。神様が一緒にいてくださるという救いです。十字架のイエス様が本当の平安、救いの中にあったように、この写真のお一人お一人も、今、本当の平安の中に、救いの中にあるのです。
 そしてイエス様は、今もこの世を生きている私たちに語られます。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に、世に勝っている。」(33節)

 私たちがどんなに罪悪感や後悔に苛まれようとも、この人たちは、この世のどんなものよりも確かなお方によって、支えられているのです。そして、私たちがいつか必ず経験することも、決して孤独ではないのです。イエス様はそのように言われているのです。私たちが今生きている“この世”は、苦難に満ちています。“この世”の目では、死は恐怖かもしれません。ですが、そのような苦難や恐怖に沈んでしまうのではなく、それでも一歩進む、そんな勇気を、イエス様は与えてくださっているのです。
 イエス様は、「わたしは世に勝っている」と言われました。私たちを襲うあらゆるものに、イエス様は勝っているのです。悲しみに沈む私たちのために、孤独に怯える私たちのために、イエス様は世に勝っているのです。敗北だらけの私たちの人生に、ご自分の勝利を与えるために、イエス様は私たちと共にいてくださるのです。
 私たちの教会では、聖餐式の際、この聖卓を囲んで、半円の形を作ります。これは、もう半分、聖卓の向こう側には、既に召され、神様の本当の平安のなかにある方たちがおり、その方たちと一緒に聖卓を囲んでいるということをあらわしています。全聖徒、すべての聖なるものたちとは、この聖卓を囲む、私たちの時間と空間を超えた、私たち全員のことです。今日、特にそのことを感じながら、イエス様のからだと血とを受けていきたいと思います。そして、この聖卓の向こうにいるお一人お一人と、何よりもイエス様の御言葉から、勇気と希望とをいただいて、新しい週へと歩みだしてまいりましょう。